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セルフラーニングコミュの子どもに愛が伝わっていますか

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コミュ内全体

 昨夜,テレビ日曜洋画劇場で「デイアフラー」を観ました。録画で観るので1週間遅れです。
 巨大洪水がロンドンを襲う物語。主人公は父と息子です。
 前半では,息子は父を嫌っている場面が出ます。しかし,洪水から市民を救うために2人が協力する中で,息子は父の愛を感じるようになります。そして,息子も父を愛するようになります。

 よくある話です。多くの人が共感するので,繰り返されるテーマでしょう。

 今回のトピのテーマは「子どもに愛が伝わっていますか」としました。

近藤知恵 著「子どもに愛が伝わっていますか―心のかけ橋をきずく“親業”」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4837916872?ie=UTF8&tag=selfyoji-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4837916872

 からお借りしました。

 もうだいぶ前に読んだので,内容はすっかり忘れてしまいましたが,本の題はとても気に入っているのでしっかり覚えています。

 親が子どもを育てるとき,そして教師が生徒を教えるとき,愛というのがとても大きなウエイトを持つことにたぶん多くの方が賛成してくれると思います。もちろん,ぼくも賛成です。

 ただ,もう一歩進めて,
 愛していればいいというものではない,ということです。

 デイアフラーの父親は,洪水の前から息子やその他の家族を愛していたのです。しかし,頑固者で仕事第一の科学者である親の愛は息子に伝わっていなかった。
 伝わっていない愛は,無力なのです。それが伝わって初めて力を持つようになります。
 父親が「愛している」ということ,それも大切ではありますが,それよりも子どもが「愛されている」ということに気付くことがもっと大切なことなのです。

 「愛されている」と知った子どもは,まっすぐに生きようと思うものです。

 一所懸命にやっているから,子どもたちも分かってくれるはずだ,というだけではなく,その気持ちを子どもがきちんと受け止めているかに気を配り,そのように努めなければいけません。

 ぼくもそういうのは,だいぶ不器用です。でも,ぼくなりのやり方で努めていきたいです。
 

コメント(14)

 きのうは,「子どもに愛が伝わっていますか」ということを書きました。

 本当は愛していても,子どもがそれに気づかなければ,それは無力だということです。

 もう少し詳しく書きます。
 私たちにとっては,客観的世界と主観的世界があるのです。

( これことについては前にもどこかで書いたことがあり,だぶりますが,ご了承を。できるだけ前回と違う表現で書きます。 )

 客観的世界というのは,私たちがどう思うかに関係なく,実際に存在する世界です。それに対して,主観的世界は私たちが思っている世界です。

 例えば,サンタクロース。

 客観的世界の中では,サンタクロースは存在しません。

 しかし,子どもたちはある年齢までは,サンタクロースは存在していると思っています。子どもの主観的世界の中では,サンタクロースが存在するとうことです。

 このように客観的世界と主観的世界が食い違う例はいくらでもあげることができます。

 昔,地球は平らだと人々は思っていました。しかし,実際はその当時から地球は丸かったのです。ここでも客観的世界と主観的世界は食い違っています。

 そして,ここで確認したいのは,私たちは主観的世界の中で生きている部分が大きいということです。
 サンタクロースがいると思う。だから,サンタクロースにプレゼントをお願いする。そして,サンタクロースがやってきて,プレゼントが届くのを楽しみに待つのです。

 地球が平らだ,大洋の端は滝のようになっている,と思っている人々は,決してそこに行こうとはしません。彼らの主観的世界では地球は平らだからです。

 コロンブスは,地球が球だと信じました。だから,西へ西へと向かって航海を続けることができたのです。客観的世界と主観的世界が一致したとき,ぼくらは真実を知ったことになります。

 さて,きのう書いた「子どもに愛が伝わっていますか」に戻ります。

 客観的世界の中では,親は子どもを愛している。しかし,子どもの主観的世界の中ではそれを感じられない。つまり,子どもの主観的世界の中では,親は子どもを愛していない。そういうとき,子どもは愛されていないということで行動することになります。

 「ぼくは親に愛されていないんだ」,ということで,非行に走る,ということもありうるわけです。

 だから,ぼくらは子どもの主観的世界ではどうなっているのかを気にしながら働きかけをすることが必要になるのです。

 客観的世界に主観的世界を近づけていくというのが,学習です。我々は,学習することにより,客観的世界がどのようなものであるかを知り,主観的世界を変えていくのです。
 
 主観的世界と客観的世界について,アドラー心理学にもあります。アドラーもそのあたりを重視しているようです。


http://www.amazon.co.jp/gp/product/4584103127?ie=UTF8&tag=selfyoji-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4584103127
岸見一郎著「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ワニのNEW新書)」

 アドラーは,私的感覚,共通感覚、コモンセンスという言葉を用いていますが,主観的世界,客観的世界と同じものだとぼくは思っています。

 以下,p130〜132を引用します。



 同じように考えるとー年を通じてほぼー八度である井戸水が夏は冷たく感じられ冬は温かく感じられるという事態は、主観的にそう感じられるだけであって、「本当は」温度は変わっていない、と見なさなければならないのでしょうか。夏から冬になって井戸水は本当に温かくなったのか、と問われたとき、そうだ、と答えることはできないのでしょうか。

 ( 中略 )

 このように考えると私的感覚としての世界はたしかに個人が構成したという意味では仮想ではあっても、それとは別の絶対的な基準となるような世界を想定し、それのみが真実である、と考える必要はないでしょう。冷たいはずはないのだ、「本当は」一八度なのだから、というのが滑槽であるように(滑稽であるだけなら問題はないのですが)、

 いいかい、君の見方はまったくの私的(あるいは個人的)なものだから(=私的感覚)皆と同じように考えたほうが(=共通感覚、コモンセンス)いいよ、とか、君がしていることは何々らしくないというふうに造りつけの価値を押しつけることは危険この上ないことだといわなければなりません。先にもいったように共通感覚が誤っていることもありうるからです。

 そうではなくて個々の場面でそれぞれが私的感覚を持っている者同志が共通の言葉を探し出して、より「善く」生きる方策を探し出していくしかないのです。

 勇気づけについて先に(第二章)見ましたが、あらゆる場面であらゆる人に妥当する勇気づけの言葉というものがありえないのは今見てきたことに基づきます。今私がいったことは勇気づけになったかどうか問うてみることで、個々の場面でどんな言葉が勇気づけになるかを確認をとっていくしかありません。ときには、勇気づけとはー見思えない言葉が勇気づけになることはありえます。勇気づけは相手とともに構成された現実の中でのみ意味を持つからです。
こぉへさん

 コメント,ありがとうございます。

>>>こんな言及しにくいテーマ

 ぼくは,そんなつもりではなかったのですが,これもぼくの主観とまたみなさんが受け取って主観のずれです。

 どんどん横やりを入れてくださった方がうれしいです。
 ぼくは,ぼくが学んだこと,考えていることを書き込んで,それをたたき台にして,みなさんがそれぞれの意見を書き込んでくれたらと思っているところです。そういう意味で,こぉへさんのコメントはうれしいです。


 子どもにどのような影響を与えているのかを気にするあまり,はれ物にさわるようになるのは,確かにあり得ますね。

>>>上手に育てようとした挙句、デリケートに育てすぎて打たれ弱い子になってしまうケース

 も十分にあり得ることです。

>>>いろいろな親が存在し、様々な考えがあっていい

 これも納得です。

 そういうことに全く言及していませんでした。それをこぉへさんが補ってくれたことに感謝いたします。


 ぼくは,このトピで「フィードバック」の大切さを書こうとしています。

 もう30年も前のことです。運転免許のために教習場に通いました。最初の日だと思います。
 助手席に座った教官がぼくにたずねました。
 「いま,タイヤはどこを向いていると思うか?」
 ぼくはもちろん「分かりません」と答えました。
 「では,どうすれば分かるか?もちろん,車の外に出てはいけない」
 考え込んだぼくは「車を歩かせれば分かります」と答えました。
 「そうだ。ぼくでも車を動かさないとタイヤの向きは分からない」

 車の動きを十分に注意するということです。
 車が右に曲がりすぎているときは,左にハンドルを切る。逆に左に曲がりすぎていると右に切って,自分の思っているところに車を進ませるようにします。

 結果が返ってくるのを考えにいれて,自分の行動を調整するのです。それをフィードバックといいます。

 はれ物にさわるように,デリケートすぎる育て方をして,打たれ弱い子になっていないか,それをみて,育て方を考え直すのもフィードバックです。

 頭のいい子に育てたい,やさしい子に育てたい,たくましい子に育てたい・・・・,それはいろいろです。それでいいのです。

 でも,やさしい子に育てたいと思って子どもに働きかけをします。例えば,ねこを飼ってかわいがるようにするやさしい子に育つと本にあったので,それを実行したとします。ぼくがここでいいたいのは,それで終わってしまってはいけない,ということです。

 そのペットを飼ったために子どもがどのように変化するのかを十分に気をつけなければいけないということです。やさしい子に育つようにした親の「つもり」が,そうなっているのかをみるようにしなければいけません。そして,それがうまくいっていると判断したら,それを続け,もしうまくいっていないと判断したら,変更することが必要になります。

 「打たれ強い子」に育てたいと思って,きびしく育てようとします。その加減が難しいですね。きびしすぎると心にゆがみがでてくる可能性があります。きびしさが足りないと「打たれ弱い子」になります。それがうまくいっているのかは,子どもをみることです。

 長々と書いてしまいました。みなさんからの反対意見などは,このコミュニティがうまくいくためにフィードバックになります。どんどん横やりを入れて欲しいです。

 よろしく。
 こぉへさんのコメントを読む前に準備していた文です。そのつもりで読んでください。


 「アドラー心理学入門」の著者岸見一郎は次のような例を書いています。


 家族で「四国の森の村」に帰省していた大江健三郎一家が東京に帰る日、娘が帰りの飛行機の中でしきりに気にかけていることがあった、と大江健三郎が書いています(大江健三郎『恢復する家族』講談社)。息子の光さんが家を出るとき、おばあさんに、それも大きな声でこういったのだそうです。

「元気を出して、しっかり死んでください!」

おばあさんはこれに対して答えました。

「はい、元気を出して、しっかり死にましょう、しかし、光さん、おなごりおしいことですな!」

 幸い回復するのですが、しばらくしてからこういわれたそうです。

 「自分が病気である間、いちばん力づけになったのは、思いがけないことに、光さんの最初の挨拶だった。元気を出して、しっかり死んでください・・・その言葉を光さんの声音のままに思い出すと、ともかく勇気が出た。もしかしたらそのおかげであらためて生きることになったのかもしれない」


 ふつうは,お年寄りに「しっかり死んでください」とは言いません。禁句です。
 でも,その言葉がおばあさんを勇気づけたのです。

 ふつう「がんばれ」という言葉は人を励ます言葉です。
 テレビを観ると,マラソンで走り終えた選手が,みなさんの「がんばれ」の言葉に後押しされて走り続けることができました,のようなことを言っています。

 でも,この「がんばれ」を鬱病に人に言ってはいけないそうです。そのがんばれが鬱病の人を苦しませるというのです。

 つまり,相手の主観的世界の中で,その言葉がどのように働いているのかを気にしないといけないということです。
 愛というのは、関心を持たれているかどうかによって感じられるものだと思います。生徒が学習しているそのことに対して、何の感想も評価も述べられることがなかったら、その子はだんだんやる気を失ってしまうでしょう。

 時を共有してその子がいることが気になるなんてことを感じさせることができれば、愛が相手に伝わっていくのではないかと思います。

 お花にお日さまが当たらなければ大きくて元気な花は咲きません。人間にとってのお日さまは、正に関心です。お日さまが黙ってお花に力を与えるように、生徒に何かを働きかける必要はありません。

 黙ってじっと見られているその感覚だけで人は育つのだと思います。

 一生懸命干渉したがる人がいます。でもこれはお水です。お水をやり過ぎると根ぐされします。根が伸びません。根っこの弱い草花はすぐに枯れます。

 根を伸ばす方法を知っている人は、しょっちゅう人に関わらないものです。塵や埃がついたときにそっとそれを取り除いてやるだけ…それで病気にかかることはないのです。そしてそのためには時々見ている必要があるのです。

 人には自ら育つ力がある。それを信じることができる人は先生に向いている人だと思います。信じる力の弱い人はすぐに手や口を出したがります。それは危険な行為です。先生の忍耐強さが生徒を忍耐強くしていく。先生に出来ないことを生徒に要求するのは酷です。

 だから結局、先生が強くなることがすべてだと思います。そうすると自然と愛する力が湧いてくるのだと思います。
 クリスさん

>> 愛というのは、関心を持たれているかどうかによって感じられるものだ

 まさにその通りだと思います。関心をしめして,それが伝わっていることが大事ですね。

 太陽,水の例,とても分かりやすいです。

>>>人には自ら育つ力がある。それを信じることができる人は先生に向いている人だ


 とても重みのある言葉です。それを信じられない人は,ついいろいろ不必要なことをしてしまうのですね。
 子どもに愛が伝わっていますか,ということで,

 客観的に愛しているというだけではなく,その愛が子どもに伝わって,子どもが愛されていると感じることが大切だと,書いてきました。

 少し,視点を変えてみます。

 授業において,いい授業なのか,悪い授業なのかは,客観的なものはない,という話をします。愛と同じです。それが知識に変わっただけです。

 教師は,ある知識を生徒に伝えるために,いろいろ工夫します。下調べを十分にして,そしてイラストを使ったり,ユーモアのあるじゃべりかたをしたり,例をあげたり,
 とにかくいろいろな手を使って,「いい授業」をしたとします。

 しかし,それでいい授業になったかどうかは分かりません。

 肝心なことは,それが子どもに伝わったかどうかです。

 中学2年生で連立方程式を学びます。教師は,分かりやすい説明をしたつもりでいても,生徒達が連立方程式を解くことができなければ,その説明は悪かったということになります。

 同じ説明でも,Aさんは理解して解くことができても,Bさんはできなかったとしたら,Aさんにとってはいい説明で,Bさんにとっては悪いものだったといえます。

 だからぼくらは自分の授業に酔ってはいけないのです。

 一斉授業のときには,自分の授業に酔うことがありますね。ぼくもあります。

 ある説明をして,うまく話せたなあ,と感じることがあります。きょうの授業は100点満点だと自己評価します。

 でも,後で生徒が問題を解くが解けないというのをみて,なぜあの説明でできないんだ,と腹を立ててしまうことがあります。

 でも,その腹を立てる方向は生徒ではなく,自分でなければいけないのですね。生徒ができないということは,ぼくの説明が悪かったからだ,ということなのですから。

 いい授業というのは,教えようとする知識が生徒にきちんと伝わった授業なのです。


 このように書いてきて,確かに「言及しにくいテーマ」になっているなあ,と感じています。

 ただ,ぼくはこのコミュをサロンのようにできないか,と考えています。前にもどこかに書きました。

 サロンの形式もいろいろかとは思いますが,まずやっていることは

 だれかが,自分の得意とするテーマについて披露します。一応,教育に関することに限ります。
 それについて他の人は意見や質問などをする。そして,それに答えてもらう。

 そうすることで,楽しい語らいができて,少しだけ各自が向上する,それができればいいなあ,と思っているのですが,どうでしょう。

 また,ちゃんとしたことでなくても,自分はこのように考えていることがあるのだが,どう思いますか,というトピを立てて,他の人の意見を聞くというのもいいかも知れません。

 それも気軽にやりましょう。
 居酒屋気分で,ビールを片手に自分の考えを語って,それに意見を出してもらう,それができれば管理人としてはうれしいのですが,
 
 フィードバックがどんなに強力なものなのかが分かる実験を紹介します。

 まず2つの幾何的図形を準備します。この実験が書かれていた本をさがしたのですが,見つからないのでぼくが適当に描いてみました。

 一人の人が図形の説明をして,その他の人がその説明を聴いて,その図を再現して描くというものです。

 準備するのは鉛筆と紙。それと図形です。消しゴムもあった方がいいです。

 説明をする人を「説明者」,その他の人を「図再現者」としましょう。
 説明者は1回につき1人,図再現者は何人でもかまいません。

 2回行います。「フィードバックなし」と「フィードバックあり」です。

 「フィードバックなし」では,図再現者は「質問してはいけない」ということにします。説明者が一方的に説明を行い,図再現者は,その説明を聴くだけで,図形を再現しなければいけません。

 「フィードバックあり」では,図再現者が質問をいくらでもしていいことにします。分からなくなったら,すぐに質問して詳しく説明してもらうことができます。何回質問してもかまいません。

 2回のちがいはそれだけです。「質問なし」と「質問あり」です。

 生徒に説明をさせる場合は,最初の「フィードバックなし」は一番説明がうまいと思われる生徒にさせましょう。

 そして2回目の「フィードバックあり」は,2番目か3番目に説明の上手な生徒にさせてみましょう。

 また,図形は同じ程度に複雑にすべきですが,同じ複雑さの2つの図形を描くのは難しいです。だから,フィードバックなしの方で単純だと思われる図形を使います。

 「フィードバックあり」の方が成績がよくなるはずです。それを説明する人がよかったとか,図形が単純だったということにしてはいけないからです。

 1回目が終わっても正解の図形は見せずに,2回目を行いましょう。1回目の図形を見せると,2回目の実験のヒントになります。1回目を行っただけでもヒントになりますが,まあそこはしようのないこととして。

 この2つの違いは明白です。実験をしたらすぐに分かるはずです。

 フィードバックなしでは,いくら上手に説明したと思っても,まず同じ図形は描けないはずです。

 一方,フィードバックありでは,ほとんどの人が同じ図形を描けます。

 フィードバックなしのとき,図再現者はいらいらします。うまく描くことができないからです。そのいらいらは説明者に伝わるかもしれません。1つのフィードバックです。それで説明を詳しくしようと思うのですが,どこをどうすればいいのか分かりません。

 フィードバックありでは,活発な質疑がおこり,図再現者も楽しそうです。
 「待って,待って,ひし形は縦と横,どこが長いの?」
 「今言ったこと,もう一回言って」
 「弧って何だったっけ?」などなど。

 この実験をすれば,フィードバックありの授業をしなければいけないということがよくよく分かるはずです。
 フィードバックありの授業とは,教師が行った授業を生徒がどのくらい理解しているのか,子どもたちの反応を気にする授業です。それについては次回に詳しく。

 なお,これは厳密な心理学の実験ではありません。厳密にするためには,フィードバックあり,なし,以外は同じ条件にしなければなりません。それはめんどうです。研究ではないので,上の手続きくらいで理解できるはずです。
 島宗理著「インストラクショナルデザイン 教師のためのルールブック」のp18〜19を抜粋します。

 「インストラクション」とは,教育の広い意味で,「何らかの行動を引き出すたえの仕掛け」です。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

「何かを教えても教わった方がそれを学んだとは限らない」

矛盾しているようだが、インストラクションの現場では日常茶飯事に起こっている現象だ。

 ・ 分数の授業はしているが、計算ができないままの子どもがいる。
 ・ スノーボード講習を受けたがうまく滑れない。
 ・ 交通違反をした人に事故の怖さを教えるビデオを見せるが、また違反して戻ってくる。

矛盾の原因は 《教える》というコトバと 《学ぶ》というコトバの関係にある。

ここだけの話・・・
《教える》=《学ぶ》ではない

 《教える》はインストラクションを与える《教え手》側のさまざまな行動や働きかけであり、《学ぶ》はインストラクションを受け取る《学び手》側の行動の変化である。両者はそもそも別物だから《教える》=《学ぶ》ではないのも当然と言えば当然なのだ。

もちろん、そんなことを堂々と言っていては《教える》ことがプロの仕事として認められない。だから、できるだけ《教える》=《学ぶ》になるように、それぞれが工夫することになっている。

この「ことになっている」というところがミソである。

 小学校の授業でも、ゲレンデのスノーボード講習でも、カルチャースクールの生け花教室でも、多くの場合、教え手は《教える》ことに責任は持っても《学ぶ》ことまでは保証していない。

学校では教科書通りに授業を進めて、何回か発問し、板書でもしていれば「教えた」ことになる。生徒の3人にひとりが落ちこばれていたとしても。カルチャースクールでもプログラム通りに講習会が終了すれば修了書がわたされる。参加者全員が目標に到達しなかったとしても。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 これまで書いてきたことですね。
 教師は,ある知識を伝えようとして話した。しかし,生徒の頭の中にはそれが入らなかった。知識は伝わらなかった。
 教えはしたが,学ばなかったということです。
 学ぶまでいかないと本当の教育にはなりません。教育をしたつもりということです。

 だから,私たちは生徒は私たちが伝えようとしたことをきちんと学んだかをいつも気にしなければいけないのです。

 なおこの
島宗理著「インストラクショナルデザイン 教師のためのルールブック」
 は,今行動分析の立場から書かれた数少ない教育書です。多くの方に読んでもらいたいです。

www.amazon.co.jp/gp/product/4946553193?ie=UTF8&tag=selfyoji-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4946553193">

 昨日は,

島宗理著「インストラクショナルデザイン・・教師のためのルールブック」から「何かを教えても教わった方がそれを学んだとは限らない」というページを抜粋しました。

 その同じ著書から「学び手は常に正しい」という部分を紹介します。昨日の部分につながるものです。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 


鉄則12 学び手は常に正しい

 教えようとしていることがうまく教えられないとき、教え手は《個人攻撃の罠》に陥りがちだ。

 個人攻撃の罠とは、教え手が教えようとしていることを学び手が学んでいないときに、それを学び手や教え手の能力や適性、やる気のせいにしてしまって、改善のためのアクションをとらないことだ。

個人攻撃の罠

 児童が宿題をやってこなくて  
   → 「こいつらやる気がなさすぎだ」

同じことを繰り返し説明しても分からない生徒に
   → 「この子には適性がない」

授業中、ほとんどの生徒が寝ているか私語をしているのを見て  
   → 「私には教師の適性がない」

インストラクションを改善していくための鉄則中の鉄則として、《学び手は常に正しい》というルールを覚えておこう。

鉄則中の鉄則 学び手は常に正しい

 宿題をやってこないことが「正しい」という意味ではもちろんない。宿題をやってこない背景にはそれなりの理由がある。その理由が分かってみれば、児童はその理由にかなうて「正しく」宿題をしてこなかったことが理解できるという意味だ。宿題をやってこない児童がいるということは、宿題に関するインストラクションのどこかに改善の余地があると考えよう。

個人攻撃の罠に陥らず、宿題をやってこない理由や原因を児童のやる気や性格、能力のせいにせず、インストラクションの改善点として解明できれば、宿題をやってくる行動を増やすことができるようになる。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

 このことは,ぼくが教材を作るときにいつも気にしていたことです。プログラム学習を作るときの注意点としてよく書かれていたからです。

 つまり,教材を作って生徒に与えます。しかし,与えっぱなしにしません。ほとんどの生徒がきちんと正解に達していればいいのですが,間違えている生徒が多いときは教材が悪いとするのです。そして,ほとんどの生徒が正解に達するように教材を手直しします。

 生徒ができないときは,生徒の理解力のせいにしてもしようがありません。
 教え方にまだ工夫が足りないということで,もっと工夫できないか考えることが大切だということですね。
 そうですか。Yojiさんの問題集を見せていただいてその意図はよくわかりました。ただ間違いの先回り(転ばぬ先の杖)があるようでそれだけが気になりました。

 間違って学ぶというのでは駄目でしょうか?

 いろいろな考え方がありますが、間違った方が印象に残る。どちらにしてもどこかで間違わなかったら本当に理解できないような気がします。 
クリスさん,コメントありがとうございます。
また,ぼくのテキストもご覧いただいているようでありがとうございます。

 さて,「間違いから学ぶこと」は大切なことだと思っています。
 「間違った方が印象に残る」というのも真理だと思います。

 ピアジェ(スイスの児童心理学者)の有名な実験があります。
 粘土があります。
 丸いかたまりにした場合,それを細長くした場合,小さな固まり数個に分けた場合,どちらが重いでしょう,
 と子どもに考えさせるのです。

 そして,なぜそれが重いと思うのかを言わせます。集団で行う場合は討論などもいいです。最初に答えを教えるのではない。間違えてもいいから,どれが正しいか考えさせる,というのが大切なところです。

 そして,実際にはかってみると,どれも等しいということが分かる。そういうのは間違いから学ぶ,いい方法です。


 ぼくも故意に次のような質問をすることがあります。

「月っていくつあると思う」
「えっ,ひとつに決まっているでしょう」
「しかし,三日月があるし,満月がある。そして半月も,もっとあるのかな」
「・・・・」

「太陽が南に来たときがお昼の12時なんだよね」
「そうです」
「(地球儀を使って)ほら,いま北海道で太陽が南に来たね。そしていま東京。そうしてやっと沖縄に太陽がやって来た
 だからね。北海道が12時になったとき,沖縄はまだ10時なんです。」
「???????」

 こういうのっておもしろいですね。故意に生徒に間違いを教えて,子どもたちが変だなあと考えたとき,それから正解に導いていく。

 でも,間違いをコントロールするってかなり難しいです。
 どちらかというと,間違えて欲しくないところで間違えることがとても多いです。

 ぼくのテキストには「転ばぬ先の杖(いい表現だと思います)」が確かにたくさんあります。でも,それを使ってくれない生徒が多くて困っています。まだぼくの工夫が足りないのです。

 「前置詞の後の人称代名詞は何格?」とヒントにあっても平気で for my と書きます。

 それに,間違え方が人によってさまざまです。Aさんが間違えるところとBさんが間違えるところは同じではないです。だから,間違えたのを直すときに,Aさん用の教え方,Bさん用の教え方をしなければいけなくなります。

 ぼくは,間違い直しに来るときに,間違えた答えでもいいから消さないでおいで,と言います。消してあるときは,どんなふうに書いたかもう一度書いて,と言って,どのように間違えているのかをみながら教えます。

 ぼくは,入門の範囲(初めて学ぶことを教えるとき)は,できるだけていねいにていねいに,間違いのないように教えます。初めて学ぶということはとてもとても大変なことです。だからこちらがていねいにやったつもりでも,子どもたちにとってはまだまだ難しい。

 難しくて自分には無理だと思ってしまうと,子どもはやる気をなくしてしまいます。学校での「落ちこぼし」はそのようにして生まれるのでしょう。
 
 ただ,応用,発展の段階では,市販の問題集を使って難しい問題にも挑戦させます。

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