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2020年04月09日11:33

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18951005 NO3836  ロシア国政府鉄道敷設地踏査のため清領満州へ測量使派遣の件

18951005 NO3836  ロシア国政府鉄道敷設地踏査のため清領満州へ測量使派遣の件
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駐韓日本公使館記録 8巻 二. 本省往来信 (38) ロシア国政府鉄道敷設地踏査のため清領満州へ測量使派遣の件
文書題目 (38) ロシア国政府鉄道敷設地踏査のため清領満州へ測量使派遣の件
文書番号 機密第拾五号
発信日 明治二十八年十月五日 ( 1895年 10月 05日 )
発信者 在ウラジオストック港 貿易事務官 二橋謙
(二橋謙 *「?−1903 明治時代の官吏。榎本武揚(たけあき)の娘婿。明治30年から貿易事務官としてウラジオストクに駐在。ロシア語が得意で,「日露辞書」をあらわした。明治36年12月死去。岩手県出身。」)
https://kotobank.jp/word/二橋謙-1106696
受信者 外務次官 原敬

(38) ロシア国政府鉄道敷設地踏査のため清領満州へ測量使派遣の件
機密第拾五号
日清戦争の結果がロシア国の利害に影響を及ぼすことは非常に多い。ロシアは遂に欧陸比隣(*四字不明)国際上の弱点を押さえ、ロシア・ドイツ・フランス三国の同盟を結び、東洋の和平永遠保持の名のもとお互いに連携して帝国政府に迫って、勝戦の結果得た遼東半島還付を求め、そしてその承諾を得たのにも飽き足らず、その清政府外債募集についても大いに下心を以って事を進めている。
自ら進んで保証者となったのは蔽うことのできない事実であるが、この頃聞く所に拠れば、ロシア政府は支那政府と内約していることがある。鉄道通過線踏査のために清領満州に測量隊を派遣しようとしているのである。
しかもその鉄道線の方向を尋ねると、ニコルスク(*現在のウスリースク市=ロシア連邦の沿海地方南部にある都市)を起点としチタ(*ロシア連邦、東シベリア南部の都市)に至るもので、将来はこの線路のある点より更に南下して、遼東半島に支線を敷く計画だという。
またこの測量隊はシベリア鉄道線に散在する技師から選抜した者たちで、彼らはまずハバロスクにある総督府に集まってそこで必要な訓令を得てその後目的地に発向する予定で、しかもニコルスクより前途五百露里間は何としても六ヵ月間に測量を終了するという予定だと言うから、これは恐らくはニコルスク、寗古塔(ネイコトウ *寧古塔は清朝期の古地名。現在の黒竜江省東部から俄羅斯=オロス=ロシア)極東共和国南部一帯。範囲は大体図們江以北、ウスリー江上流、牡丹江流域の東部、東は日本海に臨む)、チチハル(*清代には黒竜江将軍が駐在し黒竜江地区の中心地として繁栄したが、清末東清鉄道が建設されると、物流の拠点がハルビン市に移行した)間を指すものであろうか。
一説に清領満州を経過する新画鉄道はニコルスクからブラゴウエンチェンスク(*「ブラゴヴェシチェンスク。ロシア連邦の都市。シベリア南部のアムール州の州都。アムール川=黒竜江を挟んで500メートル程の距離で中華人民共和国黒河市と向かい合う国境の街である」)に達するものだというが、これは恐らく憶測に過ぎず矢張りチタの方面が実説であるようだ。
この鉄道布設計画がどのようなものかはまだ容易にその実否を確定することは出来ないとはいえ、測量隊の派遣などは疑いの入れようのない事実だと思う。
そもそもロシア国は陰謀に巧みであり、およそ事が対外政略に渉るときはその企図する所は、まさに実施に移ろうとしはっきりと一歩を踏み出す日に至らなければ、地方駐在文武長官のような例え朝廷の信用が厚くその任の重い者であってもほとんどうかがい知ることは出来ないようで、したがって一旦地方の上級社会に流伝するものは、密話であっても、本国政府が漏洩した事柄であることは疑いない。
もともと対外政策でまだ確立していない事は、各国いずれもこれを秘密にしないものはないとは言え、その漏洩の多少については自ずから差がある。専制独裁のロシアは則ちその不洩のもっとも多い国であろう。
思うにロシアは従来東洋に向って大いに伸張しようとする企画があり、敵となり味方となり支那を左右しようとするのはロシアの世襲の政策ともいえる。先帝アレクサンドル3世(アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、1845年3月10日―1894年11月1日)が財政を少々整理したのに乗じ、ほとんど不生産的事業ともいうべきシベリア大鉄道の布設を裁可した理由は、思うにここにある。
今やロシアは遼東半島還付の事について、また外債の保証について、北京政府に対し大恩国となっている。その上で遼東半島還付の請求は、これは今後の自国利害に関する所が多いためだとしても、巨万の外債保証の一件に至っては陰に陽に今後の報酬を期してのことであろう。清領満州において鉄道敷地の借用を求めるようなことはその報酬の一部に過ぎず、心ひそかに望んでいることはまた果してどのようなことなのかはまだ想像もできない。
さて黒龍沿道総督のこの度の帰国についてウラジオストック市庁において送別会の催しがあった。小官にも招待があり参会したのだが、相変わらずあれこれと演説があった。いずれも地方の隆盛発達を望むという主意であったが、なかんずく軍港司令長官・海軍少将エネゲルム氏の演説の中に次のような奇言を聞いた。
「ウラジオストック港は東洋におけるロシア国の要害であって純然たる軍港としなくてはならない。私は旅順を我が軍港としようと言う声を聞いている。これは外交家の技量によって出来ない事ではないとはいえ、およそ軍港というものは、糧食・燃料その他一切の軍用供給の道が確乎としてその背後に存在するのでなければ到底その用を為さない。したがってウラジオストック港を純然たる商港とするようなことは国防上決して得策ではない。むしろウラジオストック市を東方に押して黒龍湾に商港を移すのがよいのだ」云々。

結局のところ軍港司令長官が無遠慮にも旅順口をロシア領と考え、そこが純然とした軍港に適さないことを明言したのは、思うに、ウラジオストックの軍港としての価値がある理由を確かめようとの真意に外ならないだろうとは思うが、いやしくも少将以上の官位を冒し現に軍港司令長官である者が、公衆の面前において軽々しく「旅順港をロシアの軍港云云」と公言する以上は、僅かに新聞紙等の報道によるような話ではないはず。だとすると先般来世間に流布しているロシア国が旅順を申し受けようとする趣向があるとの不可思議な説も、あながち無根の風聞とは言うことは出来ない。あれこれ考えると心胆はおのずから寒からざるを得ない。
この辺りは我が中央政府において既に洞察しておられるところだろうとは思うが、とにかくロシア国の陰謀野心は果してどの点にまで達しているだろうか。
さきに通商貿易の調査だろしてロシア国に帰化している支那人チーホンタイという者を先導として商隊を遠く松花江(*ハルビンを通過し中流からアムール川となってサハリン湾、樺太北端の対岸に出る)に遡らせたことがある。これも疑ってみると一旦事ある時に及び、満州内地の糧食供給の程度がどうなっているかを暗に探知するためではなかったか。
また近くは太平洋艦隊の一部を思いがけなく芝罘(チーフー)に特派したことがある。みなこれはロシア政府が陰に企画する所と関連していることである。ロシアは従来つねに対アジア政策に取り組んでおり決して油断してはならない。
思うにロシアはまだ支那内治の事情に通じていない。只々大国の名称にこだわり徹頭徹尾これと与して飽くまで日本に敵対しようとする意志があるようだ。
内実はひょっとしてそうではないかもしれないが、要するに他日支那を分割することができる機会に達したならロシアはその欲する所を実現しようとする野心があって、今日までの現象を見ることになっているのではないか。いささか愚見をあわせ以上上申いたします。 敬具
明治二十八年十月五日
在ウラジオストック港 貿易事務官 二橋謙

外務次官 原敬 殿

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