第96戦 7月31日発売号○墓掘り人、ローラン・ボック、衝撃の初来日第1戦vs木村健吾。(81年新日本プロレス大阪・臨海スポーツセンター)【参考】2013年7月31日発売号は二代目タイガーマスク、ファンに初お目見え。(84年全日本プロレス蔵前国技館)
【解説】78年11月7〜29日の3週間、猪木はローラン・ボックの招きで西ドイツを初めとした欧州遠征に参加。「欧州世界選手権シリーズ」を行っています。猪木とボックは11月8日、西ドイツ・デュッセルドルフ・フィリップスホールで初対戦。(欧州世界選手権シリーズの試合時間は4分10ラウンド)、5R3分4秒、猪木の反則勝ち。
2度目は11月12日、西ドイツ・ベルリン・トイテュデントホールでの対戦。試合は荒れ模様となり5R1分11秒、両者リングアウトとなっています。
そして迎えた3度目の対戦、11月26日、西ドイツ・シュツットガルト・ギルスベルクホールでの欧州世界選手権シリーズ決勝戦、猪木はボックに終始ガードされ、懐に入れず、ボックのスープレックスで投げられて4分10ラウンド判定負けとなりました。
この試合はテレビ朝日で現地収録され、入社2年目の古舘伊知郎アナが初のメイン実況を務めています。古舘アナは「シュツットガルトの惨劇」とこの試合を表しましたが、惨劇というより、ボックが猪木の攻めを受けず、猪木は何もさせてもらえないまま試合が終わってしまった感じでした。
このツアーのプロモーターであったボックは「モハメド・アリと闘った猪木」を呼んで地元のファンの前で叩き潰して見せ、欧州の帝王の座に就こうと目論んでおり、猪木が敢えて仕掛けていかなかったのは、地元のボックに花を持たせる試合だったということでしょう。
しかし、ツアーは興行的には失敗に終わり、ボックは猪木に約束したファイトマネーを全額払うことが出来ず、新日本プロレスに遠征することで「相殺」することになりました。まさに身体で払うといったところです。
ボックは翌79年の「サマー・ファイト・シリーズ」後半戦に特別参加が発表され、シリーズ最終戦の8月2日、品川プリンスホテル・ゴールドホールで猪木とのNWFヘビー級選手権試合が発表されていましたが、来日前にシュツットガルト郊外で交通事故に遭ったとして来日がキャンセルされています。(代打としてタイガー・ジェット・シンがワンマッチ参戦し、猪木のNWF王座に挑戦、17分59秒、ノーコンテスト)
また、同シリーズには欧州世界選手権シリーズで猪木を苦しめた64年東京五輪レスリングドイツ代表のウィルフレッド・デートリッヒも参戦する予定でしたが「ボックが一緒でなければ嫌だ。」とこれまたキャンセル。デートリッヒは純粋なプロレスラーではなかったので単独で行ったら「何をされるかわからない」と本能的に感じ取ったのだと思います。
ボックは78年12月16日、西ドイツ・ジンデルフィンでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦した際、セメントマッチを仕掛け、アンドレをスープレックスで投げましたが、アンドレのボディプレスを心臓にまともに受け、血栓症にかかり、長期入院しており試合の出来る状態ではありませんでした。
ようやく回復して初来日(78年4月20日、新宿・京王プラザホテルで行われた第1回MSGシリーズの前夜祭のレセプションに来日し、猪木にオファーをしている)したのが81年7月の「サマー・ファイト・シリーズ」7月31日、大阪・臨海スポーツセンターで来日第1戦。木村健吾を相手にジャーマン・スープレックス、ダブルアーム・スープレックスを見せて僅か1分35秒、体固めでボックが衝撃的なインパクトのある日本デビュー戦を飾っています。
この回は当初76年の国際プロレス、越谷市体育館でのラッシャー木村vsスーパー・アサシンのIWA世界ヘビー級王座決定戦を3日前の7月28日、銚子市体育館での上田馬之助vsR木村の同タイトル戦の没収試合、王座決定戦の上田の負傷欠場を理由とした棄権とその裏にあった新日本プロレスからのオファーについて予想するつもりでいましたが、前週の24日発売号でR木村vsアレックス・スミルノフのIWA世界ヘビー級選手権試合を採り上げた為、「2週連続R木村はないだろう」と第二候補だったボックvs木村健に差し替えして当たりました。
対戦成績は96戦20勝76敗。
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