人は感情の生き物であり、感情が高ぶると思考はストップし感情に流される。
感情はその人の脳の特徴によって決められるので、物質的に脳を改造しない限り、変えることはできない。
24日に図書館で「ビジネスに活かす 教養としての仏教」という仏教の本を借りてきて、今日、読み終えたのだが、よいことがたくさん書いてあった。
仏教は「苦は感情がもたらすもの」と見抜き、感情をコントロールすることで苦を減らす道を説いている。
私の脳は、恐怖には我を忘れ動揺するが、怒りには冷静になる性質を持っている。
感情が高ぶると脱力し行動できなくなる。
私みたいな脳を持つ人は、仏教の説く教えは実践することもできるし、できるからこそ耳に心地よく聞こえる。
そして私と同じような脳を持つ人は、自分の脳がその教えになじむから、やはり仏教に親近感を持つ。
しかし、世の中には私とは真逆の脳を持つ人たちもいる。
彼らは恐怖には冷静になるが、怒りには我を忘れ怒鳴り散らす。
感情が高ぶると活動的になり、火事場のバカ力を発揮する。
こういう人は仏教でいくら平安な心を説法し知識としてそれを知っていても、まったく実践できない。
仏教の説く説法は、それを知らなくても実践できる脳を持つ人たちは実践してしまっているわけであり、いくら100冊本を読み、頭を丸めて寺で修業しても、実践できない脳を持つ人は実践できない。
怒りに我を忘れ家庭崩壊させてしまったような人が、自分を変えようと仏教に帰依しても、変わることのない自分に絶望するだけ。
修業で仏教の教えを実践できるのは、もともと温和で怒りに遅く仏教の教えになじんだ脳を持つ人たち。
自分を変えようと入って来た人たちは、途中で挫折し「仏教など坊主の金儲け。俺は騙された」と悪態をついて去っていく。
知識や修業で人は変わらない。
ただ脳によってその人がどのような人になるかは決まってしまっている。
キリスト教では「教会に来ている人たちは救われている人たちだ」と言う。
そもそも救われるような脳を持っているから教会に来ているのであり、救われないような脳を持つ人は教会に来ない。
脳はその人がこうなりたいと言ってそんな脳になったのでもなければ、その人が努力してそんな脳になったのでもない。
神様がその人をそんな人に創造したのだ。
教会に来る人は、神様が救いにあずかれる脳を与えた選ばれた人であり、教会に来ない人は、神様が救いにあずかれない脳を与えた選ばれない人なのである。
教会に行く行かないは本人が選んでいるのではなく神様が選んでいる。
一方、会社などでは、仏教の教えを実践できない脳を持つ人、教会に通うことができないような脳を持つ人、つまり後者の脳を持つ人が幸福になれる。
すべてを数字で評価しろ。成果がすべてだ。利益でものを考えろ。
彼らはこんなことを主張し、世間では有能な人物としてちやほやされる。
彼らにとっては、自分の脳が有利に働くこの世での栄華こそが救いなのだ。
後者の人たちが仏教寺院に入れられ修業させられるように、私は彼らに自分たちの価値観を強制され、彼らのようになれないことで憎まれた。
彼らは、仏教はボケ老人の教え、キリスト教は幼稚な神話、これらは妄想の世界。
現実社会(自分たちの脳としっくりくる競争社会)だけしか存在しない。
そう主張する。
確かに彼らの言う世界しかないなら、彼らはどこに行っても居心地がよいから、そう主張するわけだし、そうあるべきだと信じている。
この違いは脳の違いから来る。
その人の育った環境や心がけの問題ではない。
ただこの事実を知ると、
仏教や禅など「知識を得、心がけで変えられる」とする教えは、役に立たない。
「できない人を、心がけでできるようにすることは、できない」からだ。
一方、キリスト教では、そもそも人間の悪は肉体から来ると言っており、肉体の性質によって決まるとする。
心がけでは人は変わらない。人を変えたければ脳を変えるしかない。
そこで説法による改心ではなく、神は将来、キリストの再臨時、この悪を成す脳ではなく、もっとマシな脳を与えてくれると主張する。
そのため人を変えるには脳を物質的に変える必要があると考える。
怒りやすい人には鎮静剤を飲ませ、脳を物質的に変える。
仏教は人間中心主義の教えであり、人は自分の意志でなんとでもなると主張する。
だから仏教の説く正しい見方を学び実践すれば、よい人物になれると言う。
でもそれが誤りなのは、現実を見れば明らかである。
仏教では、風邪をひいて苦しむのは、苦しいと思う心が生み出している苦しみとなる。
「俺は苦しくない。俺は苦しくない」と心がければ、苦しくなくなると言う。
そして本当は苦しいのにひたすらがまんする。
体が問題ではなく、苦しいと感じる心が問題なのだから、体を治そうとはしない。
一方、キリスト教では、風邪をひいて苦しむのは、体がウィルスに攻撃され、それが苦しみという形で現れているからだと考える。
だから苦しみは心がけの問題ではない。
ウィルスを殺す薬を投与し、体を健康にするしか、救われる道はないとする。
人はその教えを聞いたから実践できるようになるのではない。
自分がその教えを実践できる脳を持つから、その教えをありがたがって聞くのであり、
その教えを実践できない脳を持つ人は、その教えを聞きには来ない。
その教えを聞けばみな実践できるような印象を持つが、もともとその教えを実践できる人たちが集まっているから、彼らが成長しているように見えるだけである。
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