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2020年01月24日22:55

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アドルフ・ヒトラーの出自とユダヤ人の血

ヒトラー家の出自については謎が多く、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。

私ほど知らない人間はいない。

親戚がいることすら知らなかった。

(中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っている。

出自について詮索される事も非常に嫌い、「自分が誰か、どこから来たか、

どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」と述べており、

妹パウラは「兄には一族という意識がなかった」としている。

そもそもヒトラーの実父アロイス・ヒトラーからして出自が不明瞭な人物で、

彼は低地オーストリア地方にあるシュトローネス村にマリア・アンナ・シックルグルーバー

という未婚女性の私生児として1837年に生まれ、

アロイス・シックルグルーバーと名付けられている。

アドルフ・ヒトラーにユダヤ人の血が混じっているという噂(うわさ)がある。

この噂は、ナチスが一挙にドイツ第2の大政党に躍進した1930年に広まり始めた。

ヒトラー自身も自分の血統に疑惑を抱き、1930年の末、ナチス法律局長の

ハンス・フランクに自分の血統を念の為に極秘に調べてくれと頼んだという。

ハンス・フランクはヒトラーの側近であり、後にドイツ軍占領下のポーランド総督となり、

ニュールンベルク裁判で絞首刑を宣告された。

彼は絞首刑を待つ間に『死に直面して』という本を著わした。

彼はその中で次のように述べている。

「多分1930年末のある日だったと思うが、自分はヒトラーのもとに呼ばれた。

ヒトラーは、彼の異母兄であるウィリアム・パトリック・ヒトラーからの手紙や

新聞記事に触れつつ、『自分にはユダヤ人の血筋があるという者がいる。 調べてくれ』と言った。

調べてみると、アドルフ・ヒトラーの父アロイス・ヒトラーは私生児であることが判った。

父アロイスは祖母マリアが42歳の時に生まれた高齢出産かつ初産であった。

さらに祖母は子供の父親として考えられる相手の男性について決して語らず、

結果的にアロイスの洗礼台帳は空白になっている。

後にマリアはアロイス出産後に粉引き職人ヨハン・ゲオルク・ヒードラーと結婚、

アロイスは「継父と母が儲けた婚外子」で後に結婚したのだろうと語っているが、

その根拠はない。

職人として各地を放浪しながら働いていたゲオルクとマリアに接点があったとは考えがたく、

またアロイスはゲオルクの養子にはされずシックルグルーバー姓で青年期まで過ごしている。

暫くしてアロイスは継父の弟で、より安定した生活を送っている農夫

ヨーハン・ネーポムク・ヒードラーに引き取られ、義叔父ネーポムクは

アロイスを実子のように可愛がった。

ちなみに兄弟で名字が異なるが、読み方の違いであって綴りは同じHiedlerと記載されている。

もともとHiedlerは「日雇い農夫」「小農」を語源とする姓名で、

それほど珍しい姓名でもなかったとされている。

「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓は東方植民したボヘミアドイツ人、

およびチェコ人・スロバキア人などに見られるとも言われる。

1887年、アロイスは地元の公証人に「自分は継父ヨハン・ゲオルク・ヒードラーの実子である」

と申請を出し、教会にも同様の書類を提出した。

改姓にあたっては義叔父ネーポムクが全面的に協力しているが、実はネーポムクこそ

アロイスの実父であったのではないかとする意見もある。

それまでシックルグルーバー姓で満足していたアロイスが突然改姓したのは

娘しかいなかったネーポムクが隠し子に一家の名と財産を相続させたかったからではないかと

推測されており、現実に大部分の遺産を譲られている。

あるいは体面を気にするアロイスにとって自身の出自が不明瞭である事を示す、

母方のシックルグルーバー姓を忌まわしく感じた可能性もある。

改姓前後からアロイスは母方の親族と全く連絡を取らなくなり、娘の一人である末女パウラは

親戚付き合いが殆どない事について「父さんにも親族がいないはずはないのに」と

不思議がっていたという。

ともかくアロイスは「Hiedler」姓に改姓したが、読み方については

「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「ヒトラー」と書かれており、

おそらく公証人が読みやすい名前で記載したものと思われる。

ちなみに日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され
(舞台ドイツ語の発音が基になっている)、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。

■父母と兄弟

父アロイスは義叔父の下で小学校(国民学校)を出た後、ウィーンへ靴職人として

徒弟修行に出向いている。

しかしウィーンに出たアロイスは下層労働者で終わる事を望まず、19歳の時に

税務署の採用試験に独学で合格して公務員となった。

上昇志向が強いアロイスは懸命に働いて補佐監督官や監督官を経て最終的には

税関上級事務官まで勤め上げたが、これは無学歴の職員としては異例の栄達であった。

40年勤続で退職する頃には1100グルデン以上の年収という、公立学校の校長職より

高い給与も勝ち取っていた。

アロイスはこうした成功から人生に強い自尊心を持ち、親族への手紙でも

「最後に会った時以来、私は飛躍的に出世した」と誇らしげに書いている。

また軍人風の短髪や貴族然とした厳しい髭面を好み、役人口調の気取った文章で

手紙を書くなど権威主義的な趣向の持ち主であった。

アロイスは性に奔放な人物で、生涯で多くの女性と関係を持ち、

30歳の時にはテレジアという自分と同じような私生児を最初の子として儲けており、

生物学的には彼女がヒトラーの長姉となる。

1873年、36歳のアロイスは持参金目当てに裕福な独身女性の50歳のアンナ・グラスルと

結婚したが、母マリアのような高齢出産しか望みのないグラスルとは子を儲ける事はなかった

代わりにアロイスは召使で未成年の少女だったフランツィスカを愛人とし、

1880年に事実を知った妻アンナからは別居を申し渡されたが、人目も憚らず

フランツィスカを妻の様に扱って同棲生活を送った。

1883年、最初の妻アンナの死後にアロイスはフランツィスカと再婚して結婚前に生まれていた

長男をアロイス・ヒトラー・ジュニア(アロイス2世)として正式に認知、

続いて結婚後に長女アンゲラ・ヒトラーを儲けた。

だがアロイスは既にフランツィスカへの興味を失いつつあり、

新しい召使であったクララ・ペルツルを愛人にしていた。

クララの父はヨハン・バプティスト・ペルツル、母はヨハンナ・ペルツルという名前だったが、

このうち母ヨハンナ・ペルツルの旧姓はヒードラーだった。

彼女は他でもないアロイスの義叔父であり、実父とも考えられる

ヨーハン・ネーポムク・ヒードラーの娘であった。

もしアロイスがゲオルクの子であったとすればクララとは従姪の間柄となり、

ましてネーポムクの子であれば姪ですらあった。

しかも彼女はアロイスより23歳年下と親子ほどの年齢差だった。

フランツィスカはアンナの二の舞を恐れて結婚前にクララを家から追い出したが、

フランツィスカが病気で倒れるとアロイスの手引きでクララは召使として再び入り込んだ。

1884年、二番目の妻が病没すると1885年1月7日に47歳のアロイスは24歳のクララと

三度目の結婚を行った。

少なくとも法的には従姪である以上、結婚には教会への請願が必要であったので

「血族結婚に関する特別免除」をリンツの教会に申請して、ローマ教皇庁から受理されている。

クララは結婚から5か月後に次男グスタフを生み、続いて1886年に次女イーダ、

1887年に三男オットーを生んだが三子は幼児で亡くなっている。

1889年、四男アドルフ(ヒトラー)が生まれ、長男アロイス2世とともに数少なく成人した

ヒトラー家の子となった。1894年に五男エドムント、1896年に三女パウラが生まれている。

後に長男アロイス2世はブリジット・ダウリングという女性と結婚して

ウィリアム・パトリック・ヒトラーを儲け、また長女アンゲラは父と同じ税務官であった

レオ・ラウバルと結婚して三子を儲けたが、その一人がゲリ・ラウバルである。

また、上記にあるようにヒトラーの父のアロイスが婚外子ということで、

ヒトラーが政権を把握すると彼自身が「ユダヤ系」ではないかと巷の噂が流布されたが、

ヒトラーの死後の史家による徹底的な調査の結果、否定されている。

親族:シックルグルーバー家

マリア・シックルグルーバーの生涯と出産、そしてアロイスの改姓や母方の一族を避けるという

謎の多い行動は「何かを隠している」として噂の対象となった。

父アロイスが10歳の時に祖母マリアは亡くなったが、彼女の出産経緯は

息子のアロイスだけでなく、孫のヒトラーにも「出自の謎」として付いて回る事になる。

顧問弁護士であり、ポーランド総督でもあったハンス・フランクは、

1930年に異母兄アロイス2世の子である甥のウィリアム・パトリック・ヒトラーから

「ヒトラーがユダヤ人の私生児であるという話に新聞が興味を持っている」と

脅しをかけられた事にヒトラーが動揺し、家系調査を行わせていたと証言している。

フランクの調査結果は「マリアはグラーツのユダヤ人資産家、フランケンベルガー家に

奉公に出ていた時期にアロイスを産んでおり、子息レオポルト・フランケンベルガーから

14年間養育費を受け取っていた」として、アロイスの父親がレオポルトであると

見られるというものであった。

フランクの「フランケンベルガー実父説」は1950年代まで広く信じられていたが

次第に史学上の根拠に欠けると指摘されるようになった。

またフランクは「ヒトラーは由緒正しいアーリア系である」と矛盾する証言もしている。

1932年にはオーストリアの首相エンゲルベルト・ドルフースがヒトラーの家系を調査させ、

「ハイル・シックルグルーバー」という記事を載せた新聞を配布し、攻撃材料としたこともある。

またニコラウス・フォン・プレラドヴィッチはアロイス出生時のグラーツでユダヤ系住民がすでに

追放されていたことからこの説を否定し、1998年には歴史学者でヒトラー研究の第一人者である

イアン・カーショーも「政治的な攻撃材料以外のものではない」と結論している。

2010年には、ヒトラーの近親者から採取したDNAを分析した結果、西ヨーロッパ系には珍しく、

北アフリカのベルベル人やソマリア人、ユダヤ人に一般的に見られる形の染色体があるという

調査結果が発表されたと報道されたが、当の記事が報じた研究者からこの報道内容に

疑義が呈されている。

むしろこの研究の結果、父アロイスがヒトラー家の血を引いていることが確実となった。

■ペルツル家

父方のシックルグルーバー家と並んでヒトラーの悩みの種であったのが、

母方のペルツル家であった。

祖母と同名であるために、ヒトラー家からは「ハンニおばさん」の渾名で呼ばれていた

母の妹ヨハンナ・ペルツルは重度の猫背(くる病)で精神疾患も患っていた。

ハンニは妹一家から家事手伝いや甥や姪の面倒を任され、特に姉からは頼りにされていたが、

ヒトラー家の家政婦ヘルルからは「頭のいかれたせむし女(ハンニ)」と陰口を叩かれている。

ハンニを診察したブラウナウの医師は現代的な呼称で言えば統合失調症に相当する症状が

出ているとの診断を下し、ヒトラー家かかりつけの医師エドゥアルド・ブロッホも

ヒトラー家はヨハンナを周囲から隠していたと証言し、「軽度の精神薄弱である」と診断している。

後年にT4作戦で劣等人種や障碍者と並んで精神患者を抹殺しようとした

ナチスやヒトラーにとって、その親族に精神患者が存在したという過去は隠さねばならなかった。

ナチ政権下の歴史家たちはヒトラー家の顕彰に努めたが、ペルツル家の存在だけは

殆ど触れられていない。

ちなみにペルツル家以外にも低地オーストリアのヴァルトフィアテル地方には

ペルツル家の親族が幾らか点在しているが、一族という概念を嫌うヒトラーからは

その存在を殆ど無視されていた。

にも関わらず彼ら一族郎党は後年「アドルフ・ヒトラーの血族」として迫害を受ける事になった。

◆アドルフ・ヒトラーにユダヤ人の血が混じっているとしても、それは何ら驚くことではない。

なぜならば、ナチスの幹部の中にはユダヤ人の血筋を引く者が実際に複数いたからである。

その者とは、ボルマン、ヒムラー、ハイドリヒ、ローゼンベルク、などである。

彼らはユダヤ人の血筋を引きながら、厚かましくも反ユダヤ主義を唱えていた。

その中の1人として、ナチス親衛隊長官ヒムラーの右腕として活躍した

ラインハルト・ハイドリヒを取り上げてみたい。

イギリスの伝記作家チャールズ・ワイトンによれば、ハイドリヒは比類無く冷酷で恐ろしい人物で

あったという。

彼は1942年にプラハでチェコ人によって暗殺された。

彼の後継者となったアイヒマンをして 「ゲシュタポの中でハイドリヒ以上の冷血犬はいなかった」

と言わしめた程であった。

とは言え、ハイドリヒにも泣き所があった。

ナチスの高官たちの間では 「ハイドリヒの祖母はユダヤ人だ」 と噂されていたのである。

のちに、ナチスが 「ハイドリヒの身元を調べたら、彼はアーリア(ゲルマン)系と証明された」

と発表したが、それによって完全に疑いが晴れた訳ではなかった。

その後、ハイドリヒはライプツィヒを訪れた折に、噂の根拠となった祖母

サラ・ハイドリヒの墓を引っくり返して跡形もなく破壊してしまった。

戦後の調査によれば、サラ・ハイドリヒがユダヤ系であったことはほぼ確実とされている。

ハイドリヒがユダヤ人迫害に異常な熱意を示したのは、ユダヤ人迫害に異常な熱意を示すことで

「後ろめたい自分の素性」 を帳消しにしようとしたのだという見方がなされている。

『ナチスと動物』(青土社)の著者ボリア・サックスは次のように述べた。

「ヒトラーは自分にユダヤ人の血が混じっているのではないかと、いつも悩んでいた。

同じことは、ハイドリヒ、シュトライヒャー、ローゼンベルクなど、多くのナチス幹部にも

当てはまる。

ナチスの反ユダヤ主義には自己確認と自己嫌悪の組み合わせとも言うべき

複雑な感情が反映されていた。

彼らにとってユダヤ人は禁じられた憧れと隠された怖れが投影された負のイメージだった」。

上智大学名誉教授の品田豊治氏は 『第三帝国の神殿にて』の中で次のように述べている。

そのころのドイツの笑い話の一つに、『純粋なアーリア(ゲルマン)人とは何でしょうか。 』

『それはヒトラーのようにブロンドで、ゲッベルスのように背が高くて、ゲーリングのように細っそり

としていて、その名前はローゼンベルクという』というのがあった。

ところが、事実は、ヒトラーは黒髪であったし、ゲッベルスは背が低く、ゲーリングは肥満型で、

ローゼンベルクは典型的なユダヤ人の名前であった。

ナチスの主張と現実との乖離を皮肉ったのである。

不思議にもナチスの幹部には外国生まれ、外国育ちのドイツ人が多かった。

ヒトラーはオーストリア生まれ、へスはエジプト生まれ、農林大臣のダレはアルゼンチン生まれ、

ローゼンベルクはリトアニア生まれであった。

外国生まれのドイツ人は故国の姿を理想化していたのであり、

外国生まれのドイツ人の“大ドイツ幻想”と現実の生活感覚との間には

常に深い対立があったであろう。

戦局の見通しが悪化すると、こうしたドイツ的感情が表面に表われてきて、

もろくも国全体がばらばらになっていったのである。

◆ユダヤ人と仲良く生活していた青年時代のヒトラー
ヒトラーはウィーン時代(1905年16歳〜1913年24歳)には絵を描いて生計を立てていた。
この時代のヒトラーが接した人の多くは意外にもユダヤ人であった。
若年で経済力の余りないヒトラーにはユダヤ人の画商は無くてはならない存在だった。 その中から幾人かを紹介しておく。

◆ ヤコブ・アルテンベルク:  ガリチア出身のユダヤ人で、下町のウィードナー本通りなどに画商兼額縁商の店を開いていた。 ヒトラーは画商ハーニッシュと別れた後、このユダヤ人画商に自分の絵を買い取ってもらった。

◆ サミュエル・モルゲンシュテルン:  ブダペスト出身のユダヤ人で、ガラス工芸職人兼額縁商。 ヒトラーが最も信頼をおいた絵の買い取り人だった。

◆ ヨーゼフ・ノイマン:  ウィーンの南方にある葡萄畑で有名なフェスラウ出身のユダヤ人で、本職は銅加工だが、実際には雑貨の行商をしており、1910年の1月から7月までヒトラーの住む男子アパートに住んでいた。 ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。

◆ ジークフリート・レフナー:  モラヴィア地方出身のユダヤ人で、ヒトラーの住む男子アパートに住んでいた。 ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。

このように、ヒトラーは描いた絵をユダヤ人画商に売って生活の糧を得ていた。

のちのヒトラーの激しいユダヤ人憎悪からは想像できない話である。

青年期のヒトラーに詳しい津田塾大学名誉教授の藤村瞬一氏は次のように述べている。

「ヒトラーはウィーンで所謂『反ユダヤ主義』に染まったわけではない。

ヒトラーのウィーン時代の生活にはユダヤ人の存在が欠かせず、後年どうしてあのような

極端なユダヤ人憎悪に走ったのか、何が彼をそのように変質させたのか、

究明しなければならない問題が残る」。





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