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2019年08月13日00:33

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あえて言うけど社会のせい

もしかしたら勘違いしてる人もいるかも知れないけど、ここでいう「自己肯定感が高い」というのは「傲慢な人、現状が満たされている人」のことじゃなくて、必要以上に失敗を気にしない、恐れない、過剰に他者の評価に捉われないで自分を肯定的に捉えられる態度のことだよ。
楽観的と言い換えてもいい。
翻って「自己肯定感が低い」っていう場合に問題になっているのは単に悲観的ということじゃない。
過剰に他者の評価に捉われていること、自己評価がすっかり他者との比較になってしまっていることだよ。

毒親だったり、いじめだったり、ブラック企業だったりという所には、一見、筋の通った言い回しで他者と比較して貶め続けることで支配し、利用し、自分を優位に見せかけようとするヤツが居る。
こういう輩ににかかると、失敗・欠点だけを指摘され、反論できずに否定され続けて、自分の尊厳が回復不能なレベルまで傷つけられることになる。

普通なら、自分のなかの肯定できる要素を見つけたり、現状の過酷な環境から逃れたりすればいいわけだけど「他者との比較のロジックに追い込まれ」て「過剰に失敗を気にする」状態までなってしまうと「変わること・挑戦すること」自体に肯定的なイメージを持てなくなる。恐れを抱いてしまう。
だから負のスパイラルに陥ってしまうんだ。
こういう状況に閉じ込められたひと(あと閉じ込められようとしているひと)が自力で脱出するのはなかなか難しい。
本人のせいとは言い切れない、あえて言うけど“社会のせい”だ。



社会が合理主義の一辺倒になって効率と利益の最大化が優先されるようになると、無駄なモノ曖昧なモノはどんどん省かれていく。
社会に情報が溢れてあらゆる物事の相関関係が可視化されてくると、予測不能なリスクはどんどん弾かれ潰されて確実性のみ礼賛されるようになる。
こうしてみんな、コストカットとリスクヘッジが大好きになった。

最大に効率化されて可視化された社会では「勝ちパターンはコレしかない」っていうのが見えてしまう。
有効な選択肢は狭まって自由度が無くなる。
僕は「草野球からプロ野球へ」って言うんだけど、やって楽しいのは下手でもマグレで勝ってしまう草野球だし、見てて楽しいのは予測不能な高校野球とかだよね。
でもカネになるのはプロ野球。
勝つことにしか意義はないんだ。
こうして世の中がどんどんつまらなくなる。

それだけじゃない。
「勝ちパターン」が明らかになってしまうと、勝てる人間と勝てない人間の差分まで明らかになってしまう。
最初から好条件を揃えている者はより有利になり、そうでない者はスタートラインにさえ立てない。
「同じ土俵で戦わなければいいではないか?」と思うかもしれないが、社会はすでに自由度を失ってしまっている。
「勝ちパターン」以外のチャレンジをするにはより大きなコストを払う必要があり、それができる者は限られている。
それはやっぱり「あらかじめ持てる者」だ。

…というふうにみんなが信じこまされて出来上がったのが格差社会だ。


勝ち残った上位のひとびともグローバル化でより苛烈な競争に巻き込まれる。
生き残りを賭けた競争のなかで、一部のひとびとは「タブー破り」の戦略をはじめる。
社会には明文化された「ルール」と、明文化はされないが暗黙の了解で合意された「マナー」の二段構えの秩序がある。
だけど明文化されないマナーは「オレが利益を得られる」限りにおいて守られ、その秩序が保たれるのは「皆がそうすることで皆が利益を得られる」状態がある限りだ。
苛烈な競争はやがてこの状態にあったプレーヤーをも脅かして抜け駆けが始まる。
グローバル競争で“暗黙の了解”の枠外のプレーヤーも参入してくる。
こうしてマナーの世界が崩壊して「タブー破り? 知るかバカ」
つまり「なんでもあり」の世界になる。

「やったもん勝ち」
こうして社会の底が抜け落ちる。
勝ち抜いた者たちは、一見、筋の通った言い回しで「ルールは守っているだろう? 何が悪い?」としたり顔で述べる。
中間層っていう共同体(幻想?)が崩壊して共通前提(よりどころ)を既に失ったひとびとは「自由競争」「市場原理」といった経済の詭弁に簡単に絡めとられてしまう。
「やったもん勝ち」の世界で合理主義はやがて功利主義に摩り替わる。
暗黙の合意が目の前で破られるのを見て理想を失った人々は保守に振れる。
すがるものがルールしか無くなった人々は「もっと!」と厳罰主義に走る。
自己責任論が新たな共通前提としてまかりとおるようになる。
世の中から余裕が削れていって不寛容のスパイラルを止めるものがもう無い。


社会全体がソッチに傾いている以上「自己肯定感の低すぎる人間には価値が無い」と言い出す人がいても仕方ない。
だけどそうした価値の無いひとたちはなりたくてそうなったわけじゃない。
学校で、ご家庭で、職場で、ネットで、社会から個人、マクロからミクロまでのあらゆるレベルで、ガチガチに凝り固まった現実主義(保守だ)によって造りだされている。
「価値が無い」と言われても自分の力で抜け出せない。
「価値を与える」ことは他者の寛容さによってしかできない。

簡単に「愛が足りない」って言ってもいいんだけど、愛は余裕がないとなかなか育みにくいモノではあるね。
あるのだけれど、モノは見方でもあるのよ。
人間はロボットじゃないので矛盾を許容できる。
なんだったらウソだってつける。
イデオロギーは棚に上げといて愛を与えることだってやろうと思えばできる。



■自己肯定感の低い人々の悲痛な叫び「私なんかと会いたくないと思うから遊びに誘えない」「思ったことが言えなくてバカにされる」
(キャリコネ - 08月12日 08:30)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=5745162
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