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2019年03月29日07:51

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閔妃(ミンピ)暗殺(朝鮮王朝末期の国母)角田房子著 新潮文庫ー18

(※は本文より転載)

 やがて雲峴宮(ウンヒョングン)と呼ばれることになる是応の邸は昌徳宮と景福宮(キョンボククン)のほぼ中間にあり、その場所にはいま徳成女子大学がある。
 趙大王大妃と正式対面の儀礼を終えた命福は、群臣一同を謁見(えっけん)した。李氏朝鮮王朝第二十六代の王高宗(コジャン)即位の儀式が挙げられ、その時からその父は興宣大院君となり、王母閔氏は籅興府夫人(ヨフンプデブイン)に封爵された。”大院君”とは王の実父に贈られる名称で、たとえば先王哲宗の父は全渓(チョンゲ)大院君であった。しかし李是応だけがあまりに有名なので、今は”大院君”といえば彼を指す名称として使われている。
 高宗即位の直後、領議政である金左根は趙大王大妃の”垂簾摂政”を申し入れ、ただちにその手続きをとった。興宣大院君の政治介入を阻止するための策であったが、この機敏な処置は結果的には失敗であった。
 高宗即位の正式発表は翌一八六四年一月に行われ、前王哲宗の国葬は同年四月であった。葬儀のあと、朝臣一同はそれまで懸案であった興宣大院君の処遇を決する朝議を開いた。
 金氏一族は「大院君を”大君”の礼で遇し、いっさいの政務に関与せず、雲峴宮の私邸で閑日月を楽しんでいただこう」と述べた。しかし趙大王大妃は、「大院君は”大君”の礼遇を固辞しているので、他の処遇を考慮する必要がある」と主張する。
 金左根はなおも一族の勢力温存のため、大院君を宮廷によせつけまいと、新王が毎月一回雲峴宮を訪問されては、と提案し、金氏一族の多くが、これに賛成した。しかし左議政の趙斗淳(チョドウスン)は、「大院君は王の尊親ではあるが、王みずから訪問されるのは邦(くに)に二尊をおくことになる」と反対した。もはや金氏一族の意向がそのまま通る時代ではなかった。
 この時もまた趙大王大妃の決断が求められた。彼女は、「私は摂政の任にあるが、女の身であり、国家多難の時であることを考慮して、この後は興宣大院君
の協力を得て大政を改革することに決定する」と述べ、趙大王大妃の大院君に対する摂政の降命は、金氏一族へその凋落(ちょうらく)を告げる言葉にほかならなかった。

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