75年のオープン選手権以降、これまでの日本人vs外国人、外国人vs外国人に加え、日本人同士の対戦も解禁し、マッチメークに幅の広がった全日本プロレスにはアントン・ヘーシンクの居場所はなくなりつつありました。
76年5月21日、後楽園ホールで開幕したNWAチャンピオン・シリーズに参加した後は全日本からはパッタリと声が化からかからなくなっていました。
77年は1回も呼ばれず、全日本との関係は切れたかと思われましたが、78年1月の新春ジャイアント・シリーズの後半2週間に特別参加。
これは一説によるとヘーシンクは76年7月のサマー・アクション・シリーズにも参戦が決定していたところ、モントリオール五輪のオランダ柔道のコーチングの為に参加出来なくなり、残っていた契約を馬場が消化させる為に呼んだという話です。
このシリーズのヘーシンクは日本側の助っ人ではなく、外国人側から柔道着の上着を着けて試合をする「異種格闘技戦スタイル」でした。
猪木の格闘技世界一決定戦シリーズが人気を得ていた時期でもあり、馬場としてはブームにあやかったか、あるいは痛烈に茶化したか、どちらかかと思われますが多分後者でしょう。何しろ、柔道家としての実績とネームバリューは世界一と言ってよく、ウィリエム・ルスカの比ではありません。
1月23日、北海道・岩内町立中央小学校体育館から参戦したヘーシンクは肥後宗典を3分45秒、片エビ固めで撃破。
その後グレート小鹿、大熊元司、肥後をシングルで撃破。
1月29日、美濃市体育館ではキム・ドクと組んで馬場、ロッキー羽田組と対戦。馬場と初めて対戦しています。
試合はヘーシンクが羽田を体固め。
2月4日、館林市民体育館でのテレビ生中継では羽田とシングルで対戦。動きは重かったものの、体格差で羽田を圧倒、袈裟固めで押さえ込んで勝利。
シリーズ最終戦2月5日、後楽園ホールでは鶴田のUNヘビー級王座に挑戦(60分1本勝負)。私はこの試合生で観戦していますが、試合は「異種格闘技もどき」、「なんちゃって異種格闘技戦」的な展開で緊張感に欠け、鶴田がそういった試合にゲームメーカーとして対応出来るだけのセンスもなく、試合は組んだり離れたりの間延びした雰囲気に。
観客席からも不満の声が上がりました。
ヘーシンクがエプロンの鶴田にリング内からスリーパー・ホールドを決め、これを反則と取ったレフェリーのジョー樋口は躊躇なくカウント5を入れて試合終了のゴングを鳴らしてしまい、17分5秒、鶴田の反則勝ちで王座防衛。
結局、ヘーシンクの日本ラストマッチはこの試合となり、全日本からフェードアウトしていきました。
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