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2015年05月24日20:03

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038 モンドリアンの生涯 第二幕 全

モンドリアンの生涯 第二幕

――これは連作戯曲「風土と存在」第三十八番目の試みである





時 二〇一四年十二月三十一日
所 埼玉県南埼玉郡宮代町身代台
人 苧婆谷すヾね
  声





1.起承転結のfind

囲炉裏を切らない座敷。鉄瓶がかすかに鳴る。番茶と煎餅など。老いた女はすれた座布団にいつつパーキンソン症状のようにからだの微情動が制御できないらしくなにかと動き続け、目は見開いているが意識があるのかはよく分からない――。遠くの林中の拡声器から過去が語られる――。

すヾね もっと…。
声 (若く)沖永良部島の友人が、浜で雲丹を食べる時は口笛を吹いてから食べるんだ、と言っておりまして、なにそれどうして?と訊いても理由は知らなく、ただそういうもんだからという答え。ふうん。元々わけはあったのでしょう、今はもう分からなくなってるけれど――。人の営みは小さな謎…忘却が生み落とした小さな謎の集積ですね。2014年12月末日。高麗川先生、ごぶさた致しております、苧婆谷です。あれから、あの地震の年の冬から早や3年が経ちました。元旦から寒波が来るそうですが今日はまだ穏やかです。田んぼに出てみました。虫たちが凍え落ちてしまった冬の田には鳥しかいませんね。まん丸に膨れあがった椋や、つがいのつぐみ、膨らむ月を横切るあおさぎと…改めて恐竜族の繁栄は、億に余る歳月を越して、今なお健在なのだなあと感心致します。1キロばかり彼方に焼き場の煙突があります。その足元には問題の万年堰の圦(いり)の森…。――あ、ちょっと私は語り急ぎすぎているかも知れません。でも先生、あの時いただいた宿題に、今なら何とか答えられる気がするのです。

わたくしの育ちました加須の部落は集落全体が盛り土の水塚(みづか)になっておりまして、小字も大根(おおね)、台宿などと呼ばれておりました。納屋の軒から田舟が吊ってあるようなところで、昭和22年の大水ではその舟を実際に使ったものだと祖父からよく聞かされました。埼玉盆地でも8メートルともっとも標高の低い加須羽生低地の地平線まで続く大平原はどこかオランダじみていて、桟の折れた障子の破れから外を覗くと、まるで若い頃のモンドリアンの風景画を見ているようでした。単純な景色も詳しく見れば夥しい数の小さな水利施設…太平記の頃から毎年毎年工夫され修繕され関東武士の胃袋と胆力を支えてきた水利施設の集積であることが分かります。行田の中条堤を例に取るまでもなくこの列島随一の平原は有史以来大きな五穀工場でありました。今は結婚していくつか離れた町に移り住みましたが、どこにいようと私の目と皮膚とは、景色の向こうの小流れを気にし続けるのだと思います。

いま住む団地は30幾年前に造成された、当時に言う文化住宅地で正式な住所では身代(このしろ)台と申します。焼き場の運転業務のため建設会社から派遣されたのがきっかけでバブルの最後の貯蓄をはたいて中古の住宅を買ったのですが、台と言うから少しは高台かと思えばむしろ回りの田の方が高くあぜにトタンの囲いをして宅地への溢水を防ぐほどの低地で、初めは何事かと思いました。登記簿には旧の字名か「沼端」とありまして、成る程湿地を埋めたてた団地なんだ、だからこれでも台にした方なんだとなんだか可笑しいような侘びしいような気になりました。越してきた当時は車も持ちませんでもっぱら自転車で土地勘づくりに励みましたが、なにせだだっ広くてなかなか思うようには行きませぬものでした。ただ住み始めた当初から妙に気になっていたのは庭の前を流れている小さな用水路です。ゆっくりながら常に水は動いています。でもどうも水源がないように見えるのです。もちろん平原においては田んぼの排水を流すためだけに作られた源流を持たない悪水路も普通にありますから格別の不思議でもないといえばないのですが、田の涸れた冬にもやはり水は僅かながら動いている。生活排水かな…、と思っていましたが、いちど大きな台風が過ぎましてここら一面一枚の水盤のようになった時、この水路もどこから集めたのやら溢れそうに満々と水を湛え、ああやはり生きた川なのだ、と思い直した次第です。震災を含め後にも先にもこの団地に避難勧告が出たのはその時だけで、水塚になった集会所に逃れまして、おそらく造成当時と思われる手書き印刷の地図が貼り出されているのを何の気なしに見ていると、ふとこの悪水路に名前がついていることに気づきました。姥ヶ谷落としと謂いました。

何の因縁でしょう。私の苗字は苧婆谷です。信州伊那谷あたりの姓らしいのですが、うばがやのうば、おばだにのおばは女の姥のことではなく、伊那方言では地形のことです。谷に面して日の当たる法面(のりめん)のことをうばと申します。南に向いた斜面がうばです。こんなただ平らに見える土地にも気をつければわずかの標高差があって、ささやかな地名を帯び、村人の用を引き受けてきた…おそらく備前の守(かみ)伊奈忠次氏の江戸初期、いえ、もっと前から…。沼そのものの名前は散逸して、今も分かりません。古地図などあればいいのですが。


2.起承転結のmeet

すヾね もっとよ――。
声 焼き場は人口3万のこの町で一番高い建物です。5階のオペ室からは久喜から加須の方面もかなり見渡せ、芽吹く春には蓮花や田起こしで三色のカードのように区分けされめくられていく幾十枚もの田、秋には夢のように白く点在する蕎麦ばたけが映え、そして、眼下の備前前掘堰のせせらぎと圦の森のくるみのさやぎ、広い空をはしる季節ごとの雲と、遠く榛名、妙義、秩父の笠山…まこと、夢のような勤務地ではありました。何のこともない田舎ではありますが。

息子はここで生まれました。祝いに、ひと張りの凧をこさえました。この平原のごうごう鳴る強い風と引きっくらをしながら生きていってほしいと思いましたね。少子化でどうも充分に外で遊ぶ友達がいるというわけにいかないのが困りものですが、それでもまあ家の前の道にチョークや蝋石で大胆な絵を描いてケンケンパしているお姉ちゃん率いるきょうだいたちや、転んですりむけながら自転車レースに興じる腕白連もいることはおりまして、あ、そうそう、備前前堀でカミツキガメを釣り上げて新聞に載ったのもこの団地の子ですね。今もさいたま淡水水族館に展示されています。そしてある時、五月の初めでしたが、玄関に見知らぬ子が現れ、すぐ来て、ヌシつかまえたからすぐ来て!と騒ぐのです。魚かい? 魚みたいなやつ!と言うのでバタバタと大樽と四ッ手網抱えて駆けだすと、息子を含めて十人内外、普段水のないクリークのあたりで大騒ぎしています。なんでもたったいま導水が始まったばかりらしいのですが尺物の鮒やなまずに混じって巨大な…初めなんだか分からなかったんですが…巨大な雷魚が押し流されてきて、用水からの落ち口の手前で息子とあとふたりばかしで木の板を当てて危うく排水に逃げるのを防いでいるのでした。これなに?ヘビ? ヘビじゃないよ雷魚(カムルチー)!気をつけなよ噛みつくよ。指くらい持ってかれるから、これタオル手に巻いて、ちょっと押し戻せる?もう少し上流に…、言ってる最中にも鯉や鮒は次々流れ着きます。そんなのどんどん拾って田んぼの泥に放りだしちゃいな、洗うのはあとでいいから、バケツある子はうちから取っといで、お母さん喜ぶよ(…いや、喜ばないかも知れないけどここはそう言っておこう)。よし!じゃ板はずしていいよ網仕掛けたから。ざあーっ!と流れが決壊し、うまい具合に魚は網にずっぽり収まりました。見るから凶暴な筋肉の塊です。90リットルの樽でも容易に収まりきれないケタものです。のちに計ると80センチ余りありました。二尺半、と名前をつけました。

どうでもいいことのようでもありますが、この時獲れたなまず、へら鮒、野鯉、雷魚らは皆、元々このあたりの川にはいなかった移入種です。のちにたなご釣りやってる子に獲物を見せてもらった時も大半はタイバラ――タイリクバラタナゴという外来種でした。ワニガメはもとよりアメリカザリガニも、カブトエビも、ウシガエルだって、これ皆百年前にはいなかった生き物ですよ。ムギツクやモツゴはどこへ消えたんでしょう。和戸の駅には近隣の観光案内としてどじょう施餓鬼の密教寺のほかに「はや・やまべ」って地味な看板が懸けてありますが、この町の川でウグイやオイカワを見かけたことなど一度もありません。そして私たち自身だってね、ほんの30数年しか住んでいない移住者です。景色は変わらないようでいて、その内わけは大きく動く。ひとの生体細胞がわずか2年で刷新されるように、わずか半世紀すら待たずして生き物たちは流行りやまいのように次々入れ替わっていく…。確かなものは何だろう。切ない問いですが、子どもの頃、あの桟の外れた障子から眺めた水田はおそらく五百年前にもあったろうし百年後にもあるだろう。ですから確かなものはおそらく存在するのです。モンドリアンはいつの頃からか風景画をやめひたすらステンドグラスを描く人になります。桟の外れたステンドグラスを描く人に。別段、障子の意匠にこだわったわけではないでしょう。彼はせっかちな画家で、顔料(グヮッシュ)を溶くのに揮発性の高い石油を好んで用いたといいます。じかにタッチを見るとなるほど苛立つほどに急いだ筆遣いであの直線を引いています。そして溶剤の質が悪かったため今では大半の絵がボロボロです。彼のやろうとしたことは愚かなことだったのでしょうか。でも、それでもなお! それでも、彼はおそらくなんらかの「普遍」を信じてあのバカみたいに単純なフォルムを反復したのだとしか私には思われません。夥しい細部の存在を知りながら敢えてそれを描かない。加須羽生低地に生まれた私にはオランダの低地をそういう風に描こうとした彼の気持ちが分かるように思えるのです。おかしいでしょうか。

先生。我が家は伊奈氏の名を拝して備前堀と備前前堀と名のつくふたつの用水に挟まれています。いずれも星川をもといとする前堀から引いた水がやがてあとぼりに落ちるという単純な仕組みで両方の川は1キロほど下流で利根川の旧流路に合します。利根川といいましても名ばかりの今では青毛堀川と葛西用水の残り水を流すだけの小さな排水路です。3河川が合する橋のところに割に大きな治水竣工碑が建っています。何ということもない記録ですが、先生、かつて夢判断をお願いしたあの詩碑があったのが、まさにそこなのです。「五方 塵もなく かねさりを染めて 往きし哉」――。今こそ、あの宿題にお答えする時かと存じます。


3.起承転結のattract

すヾね もっと……。
声 クリークでの獲りもののあった年の冬。あのかいぼりのような水はどこから溢れて来たのだろうと子どもらも思ったのでしょう、溝のなかを人間ボブスレーのように駆けのぼっていく遊びが流行っていたようでした。息子は3年生くらいでしたからそうそう遠くまでは行けないはずと高をくくっていたところ、ある日、最上流部まで行ってきた、と私に告げたのです。途中には危険なことに暗渠もあれば水の溜まっている箇所もあったようで、シャツは野茨に裂けオナモミだの草の種を大量にまといズックは泥ぬたで懐中電灯も毀れていましたが、彼の目はすでにキラキラと遠くを見る冒険者の光を宿していました。迂闊なことに、導水路の起点は日々カブで通勤していた焼き場脇の見なれた万年堰でした。言われてみれば、そりゃあそうです、起点はあそこしかあり得ません。ディーゼル動力の鉄のゲートを分間20センチの高トルクで下ろすとじわじわと湛水が始まり、一昼夜かけて2メートルほど水位が上がれば樋管(ひかん)に達し身代台周辺の水田一帯にもれなく用水が供給される仕掛けでした。雷魚を捕獲した導水の最下流地点はよく見れば木の板を一枚はめ込んで堰きとめ水路全体の水位を保つ作りになっており、そこが2キロほど続く水路の終点でそれより下は悪水路に切り替わるのでした。悪水路への合流はなぜか行き止まりの丁字路になっており、余り水は左右に分かれて流れていきます。不思議に思ってのちに左右の水路を追って行きましたら、なんとしたことか、両方とも我が家の前の用水に直結しておりました。つまり団地をぐるり一周する川だったのです。沼の名残が島のように団地になり、お濠みたいに都市生活を周囲の環境から隔離するのが姥ヶ谷落としの機能だったのでした! ――ああ、しかし、もっと大切なことがあったのです。先に申しましたように万年堰の脇にはくるみの森がございます。誰が管理している何のための森なのか、焼き場の5階から見下ろしても一向に分からずそのまま何年も、うろんに見過ごしておりました。ところがその荒れ放題の薮を分けて、息子らは内部に侵入したらしいのです。そして森の中に、小さな一基の謎めいた「碑」が建っていることを報告しました――。

夢に出たあの巨きな方の碑には、この大地の位相と空相を掛け値なしにことほぐ念が込められておりました。五方塵もなくかねさりを染めて往きし哉。この真言はある朝一種誇りかにわたくしの枕に立ち現れ、以後の暮らしを律してきてくれました。現実に建つのはよほど大きいとはいえ単なる竣工碑ですが私の背中を押してくれたもんごんは常に、とりわけ冬のこの澄んだ光線とともにある時には現実以上に確からしいものとして今も私を推すのです。かつて先生のおっしゃった「生活なんていうものは、なるべく変化なく平穏に進んでいく方がいいんです。刀根道はその助けのためにあるんです」という言葉が今さら身に沁みます。そして、刀根道なる信仰のオプティミズムもまた…。先生の突然のご逝去の報を受け取った時真っ先に思ったのは、あの日の預言の中で唯一的中しなかった、山の年艮(ごん)に応じて現れるだろう社会的リーダーのことでした。政治の悪意はまったく素早くも周到なもので、オピニオンは民間からも財界からも現れるいとまを与えられず、それどころか米経済界の思惑すら撥ねつけるかのように、巨大保守政党の先鋭化という不意打ちの形で政権は暴走を始めつつあります。この勢いは止めることはできないでしょう。対外戦争はこころ粟立つことに、今や現実の射程に入ったのです。しかし、これは外れて仕方のない予想だったのだろうとも今では思います。刀根道は穏健な信仰ですから、巨悪の興隆を予言することは構造的にできないのだろうと理解しています。長崎で生き残った老婆が、ピカがここに落ちて本当に良かった、ほかの所じゃ到底耐えられん、ここに落ちて良かったようと言った話など、もう、絶句するしかありませんが、私たちの信仰もまた、そのていの倫理を持つまでが限界なのかと思います。それをまた強さと呼んでみたい衝動を抱えながら――。


4.起承転結のclose

すヾね もっとよ――――。
声 高麗川先生。ご存命ならばうかがってみたかった。息子らに連れられて踏み入ってみたところ圦のくるみの森の碑には梵字で一文字「キャ」とありました。それが悉曇(しったん)学の真言密教慈雲流で十一面観音菩薩を意味することはともに描かれた蓮華坐からすぐ見当つきましたが、先生、精神世界で理解するなら、わたくしはあれを、かねさりの碑と対になるものと受け取ってよいのですよね? つまらぬ衆生の幾十家族かが泥の大地を生きていくために、30数年という時間をかけて沼は埋めたてられ、ハヤやクチボソは下敷きになり、その怨念を知る者もなく地の生物相はどんどん移ろっていこうとしている。「キャ」の菩薩は彼らの恨みをやんわりと封じ成仏を祈念し静かに森を鎮座せしめ、この団地を守っている。かねさりの碑が未来を拓くものなら「キャ」の供養碑は過去を慰め諫めるもの、ふたつは夫婦(みょうと)供養塔として日々わたくしを推してくれているという理解でよいのですよね。刀根道に聖地はないのだとかつて先生はおっしゃいました。浅間や不二にさくや姫ありみたいな偉ぶり方は私たちには似合わぬのだと。おときの雑談に紛れて尻切れになりましたがあの時先生はふと下田のことを漏らしました。私あとで気になって下田富士を調べたんです。富士の名を冠する全国58の山のうち最も低いとされる標高わずか180メートルの下田富士は、それでもみななろの相模富士の姉ということになっており――、姉ですから当然、その祭神は岩長姫でした。成る程な、と思いました。岩長姫のように、目立たず、末永く、ほぼ健康に、静かに、風景に溶け入るように生きていこう、それが刀根道の本念ということなのかと。――むかし、一枚の桟の外れた障子から子どもがひとり外を見ていました。子どもはまだ目前に広がる田んぼにどれだけの秘密がありどれだけのはげしい時の流れがあるのかちっとも分かっていませんでした。ただ、夏も冬も、大きな一枚の鑑(かがみ)のような地面を何となく眺めていただけ。それから何十年か経って、その息子が、田んぼの溝を駆け回っている。彼もまた風景のもつ秘密をまだ明かされてはいない。でも二つの瞳にはすでに何か生気が宿っている。世界を見透す意志の最初のかけらが宿っている。そして桟の外れた障子の向こうでその輝きを感じながら、世界は確かに彼を待っている――。









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