そんな中、大宰府の主神(かんづかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の神託を受けたとして奏上した。これを受けて道鏡は自らが皇位に就く事を望んだ。翌年、称徳天皇はこの神託を講うため側近の尼
続いての見学先は護王神社です。日本のラスプーチン、弓削道鏡による宇佐八幡宮神託事件に関わる史跡。東大寺建立で知られる聖武天皇とその皇后である光明皇后の間には男児がおらず、子供は女児の阿部内親王のみであった。光明皇后以外の夫人、県犬養広刀自(
この時の京都史跡巡り、どの順番で周ったか正直覚えていない。多分会話が弾んで楽しすぎたからだと思う。が、この土御門烏丸邸の史跡、通称「土御門内裏」は蛤御門から道を挟んだ反対側の茂みにあった。視界に入ったので寄ってみたのである。京都は歩けば史跡
菅原道真を輩出した菅原一族の屋敷跡。現在は菅原院天満宮神社となっている。この地は曾祖父にあたる菅原古人(ふるひと)から始まり、清公(きよきみ、きよとも)、是善(これよし)の三代に渡って住んでいた屋敷である。菅原家は代々儒家の家で是善の子とし
中世の史跡からぐっと時代が下って京都御所の蛤御門を見に行きました。ペリ−来航以降、風雲急を告げる幕末期。急進的な尊王攘夷論を掲げて京都政局を主導していた長州藩であったが文久3年(1863年)、公武合体派である会津藩と薩摩藩によって主導された
二条城を一周している途中で探していた石碑(実際には全く場所が違った)を諦めた時に不職庵氏が教えてくれたのが二条城とは道を1つ挟んだ公園にある鵺池と鵺神社。妖怪である「鵺」は平家物語などに登場し、顔が猿、胴体が狸、手足が虎、尾は蛇とされた。文
新・都ホテルで一泊した後、翌日はマイミクの不識庵さんと2年ぶりに合流。京都市街地を巡ります。最初に向かったのは応仁の乱勃発地、下御霊神社です。室町幕府8代将軍、足利義政の治世。重臣の畠山持国には男子がなかったため弟の持富を後継者としていた。
大阪での旅の道中、初めて南海電鉄を利用したので簡単ながら解説。通称「南海電鉄」「南海電車」と呼ばれる南海電気鉄道は大阪市浪速区に本社を置く純民間資本としては現存する日本最古の私鉄である。社名の南海は当初堺−和歌山間を結んだ事からかつての紀伊
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐によって北条氏が滅亡。当主であった北条氏直は高野山で蟄居となり、父の氏政と叔父の氏照は切腹となった。同じく叔父であった氏規は氏直に従ったが、氏直は翌年赦免されて1万石を与えられるも程なく死去
大仙陵古墳の跡はJR百舌鳥駅から乗ってJR三国ヶ丘駅で南海電鉄に乗り換え。そこから大阪狭山(さやま)駅に向かいました。目的は狭山池。狭山池は日本最古のダム式溜池である。約1400年前から現役で使われている。現在は狭山池土地改良区が維持管理してい
同級生と合流し、再び木津駅から乗車。この時、同級生の乗車分を私の18きっぷから差っ引いた。2人までなら同時使用が可能なのである。木津駅から天王寺駅で乗り換え、コインロッカーに旅の荷物を押し込むと阪和線を経由して三国ヶ丘駅で下車。目的は大仙陵
築城年不明。標高106mの城山に築かれた山城であるが、山頂部に広い曲輪が1つあるのみで周囲に空堀が巡るだけの小さな砦である。これはこの地域の農民や土豪が緊急時に立て籠もる場所として築かれたもので、この背景には南山城地域の不安定な政情が関係し