石原莞爾は、満州建国前に、次のような心境を打ち明けています。「私がかねて清末以来の支那の内紛抗争をみて、支那人の政治能力に疑いを抱くようになり、近代的国家建設は不可能と考えた。従って、満蒙問題の解決のための唯一の方策として、満州の土地に、日
上野にある国立科学博物館で生き物の誕生から恐竜時代、人間が過去から未来へどのように生活していくのか360度のスクリーンで説明されています。原始時代の人間は野草や木の実・貝・魚を食べていました。次に石器時代となり石を武器にして大きな生き物を食
日本がアメリカに敗れたのは、簡単に言うと物量に敗れたという事です。それは、無理のないことであり、実感そのものであったでしょう。軍艦や飛行機の数にしても、補給の豊かさにしてもケタ違いです。前線で戦った者も、空襲の不安におびえた者も、物質文明の
大きな事実を指摘しておきます。それは、中国は有史以来伝統的に、万里の長城をもって北方の国境としていたということです。いくら北方の騎馬民族と南方の農耕民族との間に栄枯盛衰があっても、万里の長城は、中国人が自ら長期にわたって北方民族の侵入を防ぐ
陸大教育の内容を考えていくと、石原莞爾のようなユニークな人材が出たのは希有なことです。石原莞爾は授業を殆どサボって、毎日別の本を読んでいました。試験前にザッと見るだけで、それでも陸大を二番で卒業しています。陸大出には珍しい戦略家タイプです。
1600年9月15日は天下分け目の関ヶ原の戦いが行われた。私の祖先も細川方について参戦していたので負けていればこの世には存在しなかったでしょう。結果は東軍の徳川家康の勝利に終わりましたが、西軍・石田三成方が勝利しても、安定した世の中にはなら
日本人が、マインカンプを金科玉条と拝んだ時代です。義方会での講演で、石原莞爾はヒトラーの善し悪しを正確につかむことを促しました。「私は、配属将校として、ベルリンに留学した。ドイツが連合国から袋だたきにされながら、戦後もなお責任を問われるその
日本の天皇制を、世界の中では特別なものだと考えからすれば、戦後の象徴天皇制は受け容れられるものではなかったでしょう。また逆に言えば、戦後の教育が普及していく中で、国柱会が新しい時代に立ち遅れていくのも、当然でした。田中智学の教えは、芳谷から
1941年(昭和16年)12月8日、運命の真珠湾奇襲作戦から、対米戦争が始まりました。最初は破竹の勢いで進撃し、インドネシア、フィリピンなど、アジアの植民地を次々に解放していった。しかし、空母四隻を失うミッドウェー海戦の敗北を機に攻守は逆転します。ガ