85年「バーニングスピリット・イン・サマー」最終戦前日は7月31日、岐阜産業館(観衆4,260人超満員発表)大会。東海地区の辣腕プロモーター、富野徹三氏率いる共同企画の主催興行だけにギッシリ超満員の観衆で埋まりました。メインイベントは猪木&藤波&木村
85年「バーニングスピリット・イン・サマー」7月27日、青森市民体育館(観衆2,230人発表)大会で全日本プロレスで81年全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」で優勝したブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカが新日本プロレスのリングでタッグ結成。ジ
85年「バーニングスピリット・イン・サマー」7月19日、札幌中島体育センター(テレビ生中継、観衆4,630人発表)大会。冬の雪まつり興行はジャパンプロレスの大塚直樹が長年仕切っていたとあってこの年から全日本プロレスに取られた形になりましたが、夏の札幌
85年7月12日、新日本プロレスの後楽園ホール大会が行われた同じ日、全日本プロレスの八戸市体育館の試合会場にメキシコ修行中だった越中詩郎が帰国して姿を現し、馬場に退団を申し入れています。越中は78年に社会人生活を得てから20歳で全日本プロレスに入門
85年「バーニングスピリット・イン・サマー」7月5日は山梨県富士吉田市の富士急ハイランド大ホール(テレビ生中継、観衆2,190人発表)大会。メインイベントは翌週の7月12日、後楽園ホールで藤波&木村健吾組が保持するWWFインターナショナル・タッグ王座
85年「バーニングスピリット・イン・サマー」は当時の新日本プロレスでは珍しく末尾に「シリーズ」がつかないシリーズ名称となりました。3月21日、後楽園ホールのリングに1週間前まで全日本プロレスのリングに上がっていたブルーザー・ブロディが新日本プロ
85年夏の陣「バーニング・スピリット・イン・サマー」は6月28日、品川プリンスホテル・アイスアリーナ(テレビ生中継、観衆3,120人満員発表)で開幕。3月に新日本プロレスヘ電撃移籍を果たし、4月18日の両国国技館で猪木と初対戦した超獣ブルーザー・ブロデ
85IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ最終戦は6月13日、愛知県体育館(テレビ収録、観衆12,300人超満員発表)大会。トーナメントによる優勝争い形式とタイトルマッチ・ラッシュの2本立シリーズもこの日がファイナル。メインイベントは前々日の6月11日、
「85IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ」最終戦の前日である第28戦、6月12日、横浜文化体育館(観衆3,200人発表)のメインイベントではWWF世界ヘビー級王者であるハルク・ホーガンと大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが夢のタッグを結成。猪木&坂口
話を85年新日本プロレス「IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ」に戻したいと思います。吉原死去の報は6月11日、東京体育館(テレビ収録、観衆11,474人超満員発表)で観客に告げられ、追悼セレモニーが行われ、10カウントゴングの弔鐘が鳴らされました。こ
81年国際プロレス最後のシリーズとなった「ビッグ・サマー・シリーズ」は7月16日、山梨県韮崎市運動公園体育館で開幕。ジ・エンフォーサー、ジプシー・ジョー、ジェリー・オーツ、テリー・ギブスの外国人選手が参戦。開幕前の発表ではジョーの名前はなく、メ
81年国際プロレス「ダイナマイト・シリーズ」は6月5日、本庄市民体育館で開幕。ジプシー・ジョー、カール・ファジー、エル・クルセーロ、ティエラ・ビエント・イ・フエゴの4人の外国人選手が来日。エース格として国際プロレス初参戦が発表されていた「トル
国際プロレス81年「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」ですが国際プロレス四天王の一人でIWA世界タッグ王者だったアニマル浜口が肝炎の為、無念の欠場となっています。マイティ井上とのタッグで保持していた同王座は返上となりました。阿修羅・原が凱旋帰国し
81年1〜3月にかけて行われたルー・テーズ杯争奪予選リーグ戦は外国人枠が第一次予選リーグを1位通過したマイク・ジョージ、ホセ・アローヨ、第二次予選リーグ戦で2位となったレイ・キャンディの決勝リーグ戦進出が決定。日本人枠は第一次と第二次の通算成
81年国際プロレス「スーパー・ファイト・シリーズ」は2月27日、横浜文化体育館で開幕。レイ・キャンディ、ルーク・グラハム、マイク・ボイエッティ、エローデス、エル・コバルデ、レッド・デビル(ビル・ホワイト)の外国人選手が来日。シリーズのエース格とし
国際プロレス最後の年となる81年は1月4日、後楽園ホールで開幕の「新春パイオニア・シリーズ」からスタート。マイク・ジョージ、ボブ・スウィータン、ホセ・アローヨ、ジ・インベーダー(ロベルト・ソト)、ハングマン・ジム・スター、ベン・アレキサンダー、
80年国際プロレス最後のシリーズとなる「デビリッシュ・ファイト・シリーズ」は11月1日、後楽園ホールで開幕。アレックス・スミルノフ、キラー・カール・クラップ、グレート・ムルンバ、カルロス・プラタ、エル・ドーベルマンの外国人選手が来日。スミルノフ
80年国際プロレス「第二次ダイナマイト・シリーズ」噂の超大物「ミスターZ」のダスティ・ローデスは結果は参戦せず。恐らく、2年前の78年9月の「ダイナマイト・シリーズ」にミル・マスカラスを全日本プロレスからレンタル参戦させようとして失敗したのと同
80年国際プロレス秋の陣「ダイナマイト・シリーズ」は9月14日、後楽園ホールで開幕。エース格として来日が予定されていたモンゴリアン・ストンパーが急性気管支炎の為来日をキャンセル。本連載では度々国際プロレスの外国人選手のキャンセルについて厳しく書
80年国際プロレス「ビッグ・サマー・シリーズ」最終戦7月25日、札幌中島体育センター大会の行われた日の深夜、国際プロレスの大宮にある道場兼合宿所が全焼するという残念な事故が起きています。当時の記事より抜粋。国際プロレスの道場兼合宿所は昭和47年(7
80年6月29日、国際プロレス「ビッグ・サマー・シリーズ」第2戦の後楽園ホール大会でアニマル浜口の脳震盪による欠場で返上されたIWA世界タッグ王座決定戦が行なわれました。浜口はこのシリーズ戦列復帰を果たしていましたが、体調がまだ万全ではないとい
80年国際プロレス「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」は4月12日、秦野市しまはんお祭り広場で開幕。国際プロレス初参戦となる「閃光男」マイク・ジョージ、前79年10月以来の「カナダの荒熊」ジョー・ルダック、キューバン・アサシン、ダン・ジョンストンの外国
80年4月3日、新日本プロレスの蔵前国技館大会に国際プロレスの阿修羅・原が参戦、念願叶って藤波辰巳のWWFジュニア・ヘビー級王座に挑戦しました。78年12月16日、新日本プロレスの蔵前のリングにラッシャー木村と共にリングに上がり、吉原の口から「藤波
80年3月31日、国際プロレスは前79年10月5日の「世界三大タイトルマッチ」に続き、同じ後楽園ホールでワンナイト特別興行「世界四大タイトルマッチ」を開催しました。新日本プロレスの協力を得て、元NWF世界ヘビー級、NWF北米ヘビー級王者のジョニー・
国際プロレス80年「新春パイオニア・シリーズ」第2戦の1月7日、大阪府立体育会館ではシリーズ初めから2大タイトル戦が実現。メインイベントはラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にキラー・カール・クラップが挑戦。(61分1本勝負)クラップの鉄柱攻撃
ワールド・リーグ戦の常連であったキラー・カール・クラップは翌77年の第4回ワールド・リーグ戦にはエントリーされず、4月22日、大阪府立体育会館で開幕の「ゴールデン・ファイト・シリーズ」に来日。このシリーズは前半戦にブルート・バーナード、後半戦に
76年の第3回ワールド・リーグ戦にもキラー・カール・クラップは3年連続参戦を果たしていますが、この年は超大物、元WWWFヘビー級王者"ラテンの魔豹"ペドロ・モラレスが新日本プロレス初参戦。また第1、2回優勝者である猪木がシードされ、リーグ戦の最
さて、話をキラー・カール・クラップに戻したいと思いますが、日本プロレスから帰国後、カナダのモントリオールなどのマリタイム地区、NWF地区で試合をしていた関係で74年4月の「第1回ワールド・リーグ戦」で新日本プロレスに初参戦。大物外国人選手が呼
もう一つ、日本プロレスが崩壊し興行活動が休止になった時、当時国内にいた日本プロレスの残党9人(大木金太郎、上田馬之助、高千穂明久、グレート小鹿、松岡厳鉄、ミツ・ヒライ、桜田一男、伊藤正男、羽田光男)の処遇が百田家(力道山家)預かりとなり、百田家
80年国際プロレス「新春パイオニア・シリーズ」のエース格は国際初参戦で新日本プロレスの常連であった青銅の爪キラー・カール・クラップ。 クラップは日本マットでは実力以上の強運の持ち主。73年2月、馬場、猪木が抜けた後の弱体化した後の日本プロレス