人生は、いつ、どんなことが起こるかわかりません。あの地震直前のクリスマス。家内の実家では、大掛かりなリフォームが完成しました。良い家になったねえ、と皆で喜び、大晦日に料理を作り、賑やかなお正月を迎えました。今から21年前の大晦日です。その半
震災後、10日ぐらいすると、世の中全体が落ち着いてきたのでしょう。「炊出し」というボランティアの皆さんが、押し寄せてくるよぷになりました。まったくもってありがたいことでした。我々は、あったかいものに飢えていました。申し込みの受け付けは教頭先
どんな拍子で、わが避難所に届いたのかはわかりませんが、俵にいっぱい大きなするめが届きました。九州の福江島発です。五島列島です。焼かなくても食べられるぐらいの固いするめでした。私と同世代のおっちゃんたちは、大歓声をあげて、かじり始めました。地
大病院の救急患者受け入れ口です。ストレッチャーと、看護師さんと緊急医が待ち受けています。そこに、とにかく口から鼻から出血している患者が搬送されてきます。救急医が、患者さんに向かって、「ここは、病院です。何事が起こっても大丈夫です。安心して下
避難所には、国会議員や県会議員や市会議員の皆さんが、どんどんやって来られました。たびに私は、特に国会議員の方に、政府として「ひどい災害ですが、安心して下さい宣言」を出してくださいと、再三再四お願いしました。結局は、そういう政府の態度はありま
、深夜の校長室。教頭先生が、表を拡げます。1、土地があって、持ち家が壊れた人。2、借地で、持ち家が壊れた人。3、分譲マンションが壊れたひと。4、賃貸マンションで壊れた人。5、アパートで壊れた人。6、文化住宅で壊れた人。避難されている方のアン
私は、UNHCR国連難民高等弁務官事務所の一会員です。難民支援機関です。時々、ニュースレターが送られてきます。難民の皆さんが、最近、特に増えています。世界中で、150人にひとりの方が難民です。最近、特に「なんかなあ・・・」と胸を痛めるニュースは
そうやってルールを作る避難所にしたい!というのが神戸大学からやってきたIさんなどの希望でした。ええやないか、それでいこう・・・。心配していたのは、お酒とたばこの問題でした。彼女らの提案は、「お酒やたばこは禁止しましょう」と言いかねないなあ、
ボランティアということも、ご存じなかった校長先生に、偉そうにも、世の中のことをあれこれレクチャーするのが私の楽しみでありました。教師として学校で38年過ごしてきた方と、ごじゃごじゃした会社社会や、荒波社会で27年間過ごしてきた男との世界観は
バスケットで遊んでいて、後に馬車馬のように働いてくれたのは6年生でありました。それから2か月後の卒業式で、PTA会長挨拶として、次のような話をしました。・・・おじさんの友達の話をします。雨が降ったら傘が無いので、学校にいけないぐらい貧しいの
彼ら、彼女らは、子どもたちと遊んでくれたことです。校庭じゅうを走り回って、さびしい思いをしている子どもたちの相手をしてくれました。その仕事は、校長先生にも私にも出来ないことでした。震災後10日ぐらいになると、避難所とは関係のない学区の子ども
やってきたボランティアの皆さんに、まず私が発する言葉でした。彼女は、「あの地震後、なんで奈良へ帰ったんやろ・・・」反省しています。と、頭をたれました。同じ神大生が、アパートや下宿で亡くなったり、苦しい思いをしているのに、私は何を考えとったん
あの地震後の神戸の空は、毎日毎日突き抜けて青かったです。寒かったですが、亡くなった人や家を失った皆さんのことを思えば、寒い!なんて言っておられません。御影北小学校は、阪急神戸線の線路の真北で、高台にあり、南への景観が開けていました。そこにや
地方から、神戸に来ている大学生・・・。例えば、神戸大学なんかは、そういう学生が多い大学です。そういう学生は、あの地震直後、家族が心配していることだろうということで、あわてて鳥取やら島根やら奈良に帰っています。ところが、実家に帰ってテレビで神
後に彼をほめ称えた三大功績というものがあります。彼はコミュニュケーション能力が抜群にありました。直ぐにボランティア勢力の親分になり、それぞれの学生の能力を最大限に引き出しました。組織力と説得力にもたけていて、夜に働く「不寝番」をも作りました
人間は、様々です。みんな違います。自分と意見が違うと言って、争いが生まれたりします。生きている人は、みんな意見や考え方が違って良いと、私は思うのですが、それを許さない人がいたりして、困ります。あの阪神淡路大震災後、私は、会社よりは地域や学校
大丸に勤めていた頃、いちばん初めに管理職になったのは人事部係長であります。昭和50年。29歳でありました。業務の内容は、9割が「相談」会社をやめたい。上司が、へんでおかしい。やりたい仕事が出来ていない。なんで、私の給料は安いのか・・・。小学
「よろず相談室」の先生の横には、勉強のために、いっしょさせて頂きました。地震まで、私はPTAの役員の皆さまから、「浦上さんは、マタニティブルー」のカウンセラーが似合っているよ(笑)と、よく言われていました。念のために言っておきますが、「マタ
大学生ボランティアの充実と共に、画期的なスペースが生まれました。校区にお住いの夜間高校の先生が「よろず相談室」というものを作りたいので、どこか場所を貸して欲しい、という要望を出されました。「相談」なら学校に任して欲しいと、校長先生は言われま
「しません」と、血相変えて私に文句を言った大学生が言いました。「そうやろ」と、にっこり私。世の中はなあ、君が勝手に想像しているように、へんな人ばっかりとちゃうねん。要求の強い人はおるけど、そんな人は、百人にひとりか、千人にひとりぐらいのもん
さっそく物わかりの良い大学院生が、棚を作って、「PTA会長の棚」という紙を貼りました。「もうちょい、気の利いた紙を貼れや」と、笑いながら言いますと、彼は「慈悲の棚」と、驚くほど私の気持ちの解った紙に書き換えてくれました。思わず強く握手を交わ
ボランティアの大学生らがじゃんじゃんやって来て、避難所の体制は新しい局面を迎えました。避難所を運営する会議が、校長先生を中心にする学校、わがPTA、避難されている方の代表者、という仕組みから、学校、PTA,避難者代表、ボランティアの4者会談
ボランティアの若者が充実してきました。東京やら九州などから来ている大学生に、「もっと被災地を見なあかんで」と、彼らを町に引きずり出しました。側溝の両方にレンガを積んで、その上に網を置いて、干物を焼いているおっちゃんを見ました。おっちゃんの許
あの地震では、全国からボランティアが押し寄せてこられて「ボランティア元年」と、後に言われました。御影北小学校では、50人ぐらいの方が来られました。その方々は、私の訓示を覚えておられることでしょう。1、ボランティアですから、なんでも好きなこと
なんで名簿に名前を書かなあかんねん、という大学生に対して、校長先生は、「君は、無政府主義者か」と、言われました。無政府主義者!何十年ぶりかに、その言葉を聞きました。吹き出しそうになりましたが、こらえました。その大学生は、キョトンとしていまし
薪を拾いに行って、未だに帰ってこないようなボランティアは、例外ではありません。何しに来てるんや、と思わずにはおられない青年たちは六甲山ほどおりました。しかし六甲山を乗り越えて、富士山ほど素晴らしいボランティアがおりました。それを指して、阪神
焚き火の勧進元は、地元の自治会長さんですから、遠慮なく全壊した家屋から、どんどん燃やすものがやってきます。大きな木がやって来ますと、それを燃やしやすいように切るチェンソーまでやって来ました。大きな窯で湯をわかすための、石で組んだ炉も出来まし
中にはもっと悲惨で、会社も家も潰れてしまった、という方もおられました。ひとりひとりひとつひとつの出来事をとってみれば、ふだんなら悲嘆に暮れているような出来事のオンパレードですが、比較的みんなが元気で、明るかったのは、大勢の人で、集団で暮らし
人生の中で、今日ほど、情けないと思った日はありません。今日は、議会で「文教子ども委員会」が行われました。この6月に、教育委員会は、市立幼稚園9園を廃止すると発表しました、園児が減っているからという理由です。それから各園のお母さん方は頑張りま