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「引っ越しするたびに家が小さくなり、最後は夜逃げみたいになっちゃった」萩本欽一が語る波乱の幼少期と、コメディアンになったワケ|林家木久扇×萩本欽一

林家木久扇×萩本欽一[特別対談]3回目/全4回 漫画家を目指して修業していたら、いつの間にか落語の世界に飛び込むことになった林家木久扇(86歳)。足を使ったリサーチで「笑わせる仕事」の将来性を比較検討し、コメディアンの道を選んだ萩本欽一(82歳)。その後、たくさんの出会いに恵まれて、半世紀を大きく超える芸歴を積み重ねてきた。  じっくり話をするのは初めてだという二人のレジェンドが、お互いの道のりや哲学、そして相手への思いをぶつけ合う。 【全4回の一覧を見る】⇒林家木久扇×萩本欽一[特別対談]

林家木久扇(右)と萩本欽一

コメディアンか落語家か漫才師か……進路に悩んだ欽ちゃん

――前回の最後で、萩本さんが中学生の頃に、コメディアンか落語家か漫才師か、どれになろうか迷ったというお話が出ました。 木久扇:きっと、その頃から人前で面白いことを言うタイプだったんですね。 萩本:いやいや、ぜんぜん。人前に出ると真っ赤になって何も言えませんでした。でも、小学校の最初の頃は父親が事業で成功して、お手伝いさんもいるような家だったんです。ところが、いきなりうまくいかなくなったみたいで、引っ越しするたびに家が小さくなり、最後は夜逃げみたいになっちゃった。 木久扇:そうだったんですか。私も空襲で実家の雑貨問屋が燃えて、それまでの何不自由ない暮らしが一変しました。あの頃は、親に楽をさせてあげたいという気持ちを持った子どもが多かったですね。 萩本:そのためにはどうすればいいかって、漠然と考えた気がする。ある時、女のコがキャーキャー騒いでたから、「なに?」って聞いたら、萬屋錦之介(よろずやきんのすけ)さんが家を建てたって話をしてた。まだ若いのにすごいなあって思って、最初は映画俳優になろうと思ったんです。だけど、映画の主役の人って、みんな目がぱっちりしてる。自分みたいな垂れ目じゃダメだなと、主役はあきらめた。そんでもう一回、何かの映画を観に行ったら、脇役で堺俊二さんが出てた。 木久扇:堺正章さんのお父さんですね。名バイプレーヤーでした。 萩本:初めてコメディアンっていう職業があることを知って、こっちならいけるんじゃないかと思った。笑わせる仕事ってことで、落語家や漫才師もいいかなとチラッと考えてリサーチしたんです。

森繁久彌の家を見て「これだ!」

――どんなリサーチをなさったんですか? 萩本:いろんな人の家を見に行ったの。漫才の方の家は、いちおう庭があったんだけど垣根が壊れてて、なんかもうひとつだなと。次に行った落語家の方の家には、そもそも庭がなかった。で、コメディアンとして大活躍してた森繁久彌さんの家を見たら、ドーンと庭が広がってて大邸宅がそびえ立ってた。これだな、と思ったんですよね。