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広岡達朗「ユニフォームに袖を通すのは50歳まで」西武監督就任時に誓った信念

『92歳、広岡達朗の正体』

『92歳、広岡達朗の正体』が3月14日に発売

現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追った『92歳、広岡達朗の正体』が発売前から注目を集めている。 巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。 (以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

〜西武ライオンズ編①〜 近鉄、阪神からの監督就任要請

七九年シーズン途中でヤクルトを退団した広岡は、再び評論家活動に戻った。 しかし広島のコーチを辞めたときとは訳が違う。あのヤクルトを初の日本一に輝かせたという勲章により、球界内外から「次はどこの監督になるのか?」と去就が注目された。史上最弱チームを初の日本一に導いたという実績が、広岡達朗の格を存分に上げたのだ。 「理想の野球を展開するには、チーム作りに五年間必要だ」 これが広岡の持論だ。そして、選手たちに率先垂範できる年齢として、ユニフォームに袖を通すのは五〇歳が限界点だと決めていた。ヤクルトの監督を辞めたのが四七歳。次が野球人生の集大成になるつもりで、広岡は慎重に時を待った。 八一年のシーズン終盤、近鉄から監督就任の要請が来た。 「当時近鉄の監督だった西本(幸雄)さんが推薦してくれた。西本さんは凄い。本当に一生懸命やった人で、ティーバッティングでも自らがボールを投げる。素晴らしい人なんだが、ひとつ欠点をあげるとすれば、他人の言うことを聞かない。全部自分でやろうとする。それが日本一になれなかった原因。他人の意見を採用するかしないかは自分で決めるにしても、まず他人の話に耳を傾けるべき。それでもやっぱり西本さんは凄かった」 シニカルに聞こえるかもしれないが、これは広岡流の最大級のベタ誉めである。西本幸雄は、川上哲治と双璧と言えるほどの球界の重鎮であり、関西球界のドンでもあった。監督生活は二〇年間に及び、大毎、阪急、近鉄の三球団で八回もリーグ優勝を成し遂げたものの、一度も日本一になっていない。それゆえ〝悲運の名将〟とも呼ばれた。熱血漢で指導力には長けており、選手には容赦なく手も出す。だが、一度グラウンドを離れると非常に面倒見が良く、教え子で西本の悪口を言う者がいなかったほど選手たちに慕われていた名将だった。 広岡は西本の育成能力の高さに心底舌を巻いており、プロ野球史上最高の監督とまで評価している。言うなれば、自分と同じように弱小球団を率いて、発展途上の選手たちを育てながら何度も優勝させた手腕への敬意でもある。 広岡は、近鉄監督への就任要請に即答しなかった。そうこうしているうちに阪神からも話が舞い込み、近鉄からの就任要請を丁重に断った。 「八一年の秋口、阪神球団社長の小津(正次郎)さんから連絡があった。早速会うと『まずは三年契約でどうですか』と就任を要請されたんだけど、あの頃の阪神は五年契約じゃないと選手が言うことを聞かないだろうと思った。三年契約だと選手たちが『どうせ三年経ったら辞めるし、どっかでヘマすれば途中で辞めてしまうだろう』とはなから監督をバカにしてしまう。 小津さんは『俺を信用したまえ』と言ったけど、『まだ信用できません。小津さん、三年契約だと選手たちの操縦法が難しい。五年契約ではどうですか? 三年で必ずものにしますから』と返した。結局、小津さんが首を縦に振らなかったから断った。監督をやるなら初めから五年契約でやらないと、本当の意味の改革ができない。正直、阪神に行ってもいいかなとは思っていた」 広岡が阪神の監督を引き受けていたら……。 伝統の一戦と呼ばれる対巨人戦で、阪神を率いる広岡が恩讐の巨人相手に立ち向かう図式はさぞ盛り上がり、歴史が大きく変わったかもしれない。
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“球界の寝業師” 根本陸夫の謀略
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