スポーツ

マック鈴木が「NPBを経由していない初めての日本人メジャーリーガー」になれたワケ。グラブも持たず渡米したのに…

―[サムライの言球]―
 1992年、野茂英雄がメジャーで活躍する前のことだ。高校中退直後の16歳の少年が単身で渡米した。やがて鈴木誠少年は多くの艱難辛苦を経験し、「マック鈴木」となる。  しかし、マックは野球をするためにアメリカ行きを決意したわけではなかった。息子の将来を心配した父親が「環境を変えてやり直せ」と命じたことで、彼の運命の歯車が大きく回りだすことになった。「NPBを経由していない初めての日本人メジャーリーガー」の野球人生に迫る。

街でのケンカがきっかけで滝川第二高を自主退学

サムライの言球

マック鈴木氏

 高校野球の名門、滝川第二高1年の冬、街でのケンカがきっかけだった。5歳の頃から空手を始め、中学時代には有段者となっていた。事態は立件寸前まで進み、自主退学を選択。プロ野球選手として将来を嘱望されていた鈴木の運命は、このとき大きく動きだした。 「環境が変われば人間が変わるじゃないですか。それで、父から『アメリカに行ってやり直せ!』と命じられ、中学時代に所属していた神戸須磨クラブの監督のつてで団野村さんを紹介してもらいました」  当時、団はアメリカのマイナーリーグ1Aチーム「サリナス・スパーズ」のオーナーを務めつつ、ヤクルトの監督であり、父でもある野村克也が作った少年野球チーム「港東ムース」の監督でもあった。団のもとで、選手の世話や球場周辺の雑用をこなす洗濯係として暮らすことになった。1992年春、彼はまだ16歳だった。 「売店でホットドッグやコーラを売ったり、選手たちのユニフォームを洗濯したり、完全な雑用係です。野球をやるつもりはなかったからグラブも日本に置いて渡米しました」

アメリカで野球への思いが再燃

 日々の生活は多忙を極めた。英語もしゃべれず、ストレスは溜まっていく一方だったが、月給わずか300ドルでがむしゃらに働き続けた。 「高校を自主退学した時点で野球をするつもりはなかったんですけど、少しずつアメリカの生活に慣れてくると、目の前で行われている試合を見るようになりました。サリナスはすごく弱いチームで、当時は、こんなに下手でも試合に出られるんやな……と感じながら見ていました」  野球への思いが再燃してくるのが自分でもわかった。そんなころ、メジャー経験のある黒人選手が練習パートナーを買って出てくれた。しばらくは日々の仕事に追われながら、練習を続ける生活が続いた。 「一日の8割が仕事で、残り2割がトレーニング。大変だったけど、初めて夢中になるものを見つけた思いでしたね」  そして、朗報が届く。 「ぶっちぎりの最下位で迎えたその年の最終戦で、団さんから『鈴木、お前投げてみるか?』と、いきなり言われました。たった1イニングだけの登板だったけど、一度手放した《野球》を、再び自分の手に取り戻すことができたのが自分でもわかりました」  17歳になった鈴木の胸の内に「もう一度野球がしたい」、「自分の可能性を試してみたい」という思いが芽生える。メジャーリーガー「マック鈴木」の誕生が近づきつつあった。
次のページ
ヤクルトのユマキャンプで芽生えた思い
1
2
3
おすすめ記事
ハッシュタグ