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“孤高の鬼才”門田博光が振り返る野村克也との関係「確執とかそんな単純なもんやない」

 大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?  第1回では“孤高の鬼才”と呼ばれた男、門田博光の光と陰に迫る。

フルスイングを追求……野村克也への反発と“求道者の孤独”

門田博光

門田博光氏

【画像をすべて見る】⇒画像をタップすると次の画像が見られます 「引退後、友人はいません。一匹狼やったからね。勝負の世界はひとりでいい、プロならば周囲になんと言われようとも成績を残すことだけを突き詰めればいい。“19番”との一件から、そう思って一切人を寄せつけてこなかった。でも、引退したら横の繫がりがないから大変やね。話し相手もいないし……」  73歳の門田博光は、静かな笑みを浮かべながら息を吐くようにそう言った。’70~’80年代に南海、オリックスで活躍した往年の大スラッガーの絞り出した吐息はあまりに儚く、切なかった。  日本にプロ野球が誕生して約1世紀、幾多の偉大な記録が生まれた。バッターにとっての最大の醍醐味は、何と言ってもホームランだ。言わずと知れた歴代通算ホームラン数第1位は、868本を放った“世界の王”こと王貞治。第2位に選手としてだけでなく名将とも謳われた野村克也の657本が続き、第3位に門田博光の567本が食い込む。  また好打者の条件と言える歴代通算打点数を見ても、1位に王貞治(2170)、2位に野村克也(1988)、そして、ここでも3位に門田博光(1678)が名を連ねている。  ホームラン数、打点数ともに歴代3位の記録を残しながら、門田は引退後、監督はおろかコーチもやっていない。王、野村の引退後の功績が華々しい一方、門田は引退後、テレビ中継の解説者としてたまに見かける程度で、次第に世捨て人のように音沙汰を聞かなくなっていった。  人間は、他者との出会いによって人生が大きく動かされることがある。門田にとってのそれは、冒頭の発言の“19番”、ほかならぬ野村克也との出会いだった。それほど門田と野村は、蜜月というより確執に近い複雑な間柄だった。

何を言われようが結果を残すことがプロの仕事

 現役時代から、門田には「変人」「偏屈」というレッテルが貼られ続けた。当時のプロ野球の世界には厳しい縦社会が色濃く残っており、ベテランに対しては「こんにちは」「はい」「わかりました」としか口を開けない時代。  そんな時代に門田は、上に対してもしっかりと物言う性格だった。だが、周囲からは感心というより、呆れた目で見られるのが常だった。  社会人野球「クラレ岡山」からドラフト2位で南海に入団した’70年は、球団にとっても節目となった年である。34歳の野村克也がプレイング・マネジャーとなり、監督兼キャッチャー兼4番という重責を務めることになった、いわゆる「野村丸」の出航元年だった。 「あのおっさんとはよう喧嘩した。まあパワハラ教育ですよね。嫁と姑の関係のようで、いろいろと耳が痛かったというのがホンネ。チームにも、今の選手のようにバラエティ番組に一緒に出たり、ともに自主トレをするような空気感は一切なかった。シーズンオフでも『外に出るときはタキシードを着ろ』と締め付けが厳しい時代ですわ。家に帰るまで、笑い声がひとつも出せなかったですから」  ひとりの独裁者が規律をつくり、他が従うことでチームの求心力を構築し、プラスアルファのパワーを生み出す。そんな野村体制のもとでも、門田は己の心に従って真摯に野球道を邁進し続けた。 「プロは何があろうと自分の仕事をして、成績を残すことがすべて。そして、自分の仕事はとにかくフルスイングしてホームランを打つこと。そう信じとったんです。無茶な振り方してましたわ」
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「ヒットなんか興味ない。狙うのはホームラン」
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