荒木飛呂彦最新作『ザ・ジョジョランズ』ジョディオ・ジョースターに「黄金の精神」は宿っているか

ジョディオ·ジョースターに「黄金の精神」はあるか

※本稿は、荒木飛呂彦『The JOJOLands(ザ・ジョジョランズ)』(集英社)のネタバレを含みます。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)

 8月18日、待望の荒木飛呂彦最新作にして、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズ第9部となる『The JOJOLands』の第1巻が発売された。

 “これは、ひとりの少年が亜熱帯の島々で大富豪になっていく物語”――そんな印象的なナレーションで幕を開ける本作の主人公の名は、ジョディオ・ジョースター。そう、シリーズ第5部のジョルノ・ジョバァーナ以来、久しぶりに“ジョジョにしてディオ”という、善と悪の両義性を秘めた主人公が物語を動かしていくのだ。

 じっさい、物語の序盤では、ハワイ州ホノルルで暮らすジョディオの日常が描かれるのだが、15歳の彼が常習的に行っているのは、違法な薬物の密売である。また、彼は兄(見た目は女性)のドラゴナとともに非合法のチームに所属しているのだが、ある時、チームを取り仕切っている「ボス」から、少々難易度の高い「仕事」を命じられることになる。それは、いまハワイ島の別荘に滞在している「ある日本人」が所有する600万ドル相当の天然ダイヤモンドを盗むこと——。

 これが、『The JOJOLands』序盤の大まかな展開だが——先ほど私はジョディオのことを「善と悪の両義性を秘めた主人公」と書いたが、実は、単行本の第1巻を読んだ限りでは、彼の中の「善」の部分は(家族への愛の他は)ほとんど明らかにはなっていない。

 たとえば、シリーズ第4部のラストで、ジョセフ・ジョースターがいった「黄金の精神」なるものがある。簡単にいえば、それは「正義の心の輝き」のことだが、その「黄金の精神」を歴代の“ジョジョ”たちのほとんどは——ギャング・スターを目指しているあのジョルノ・ジョバァーナでさえも――最初から持っていたというのに、だ。

「悪」がなければ「正義」は存在しない?

 ところで、よくよく考えてみれば、そのジョルノ以外の歴代の“ジョジョ”たちの多くもまた、(第1部のジョナサンを除き)程度の差こそあれ、“不良性”や“悪”の要素を秘めたキャラクターばかりといえなくもない。

 果たしてそれはいったいどういうことなのかといえば、単に荒木の趣味ということもあるだろうが(何しろ、彼が初めて連載した作品の主人公の設定は「魔少年」である)、アンチヒーロー的な主人公の方が、悪の気持ちがわかる——とまではいわないが、そういうもの(=悪)がなぜこの世に存在しているのかを理解した上で戦えるということかもしれない。

 ドイツ文学者の種村季弘は、「善と悪」について、こんなことを書いている。

 なまなましく、いきいきとして、極彩色に塗りたくられた悪にくらべて、この善はまた何と抽象的でしらじらしく、退屈なことであろうか。(中略)すでにいったように、善は抽象的な原理だから、善そのものを書くことは難しい。強いて書こうとすれば、しらじらしい教訓やお説教を枚挙することに終ってしまう。
(種村季弘「悪の娯しみ」/『書国探検記』ちくま学芸文庫所収)

 だから、説得力のある「善」を書くには、まずは具体的な「悪」を書き、それと対比させる必要がある、というわけだ。これは、シリーズ第1部の主人公、ジョナサン・ジョースターの魅力が、あくまでも名悪役、ディオ・ブランドーという“影”に対する“光”として成り立っていることからも理解できるだろう。

 しかし、この種の、いわば「清廉潔白な正義の味方」を、何パターンも生み出すのは困難である(さらにいえば、その種のヒーローはジョナサン1人で充分である)。それゆえ荒木は、その後の“ジョジョ”たちには、多かれ少なかれ「なまなましく、いきいきとして、極彩色に塗りたくられた」“不良性”や“悪”の要素を取り入れたのではないだろうか。

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