陽水にみた表現の余白と痛み ロバート・キャンベルさん

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構成・興野優平
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 日本文学研究者で国文学研究資料館長のロバート・キャンベルさんが井上陽水さんの歌詞を英訳した「井上陽水英訳詞集」(講談社)が反響を呼んでいる。50曲の対訳に加えて、陽水さんとの対談を重ねた翻訳過程をつづったエッセーを収録する。刊行から3カ月が経ち、反応を含めて振り返ったキャンベルさん。話題は、奥深い歌詞世界から透けて見える日本語論にとどまらず、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」中止に象徴される日本社会の現状にまで及んだ。

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 陽水さんの歌を改めて読み直すと、愛を注ぐ対象が親であれ子どもであれ、女性であれ、その表情やしぐさそのものよりも、それが環境の中にあって合わさって愛情、悔い、希望、あるいは性的な欲望が表現されている。自然環境と人間の同一性を裏付けるものが一連なりとなって現れていることが、作詞の一つの特徴だと感じられる。最近、そのことが日本語だけではなく、日本語的な世界観の特徴とつながるのかなと思っている。

 たとえば、「ジェラシー」。俳句的な表現で、一刹那(せつな)を切り出し、そこにいろんな残響が感じられる。浜辺にちらばった、化粧品や口紅、小銭入れ、かぎ、いまならSuicaでしょうか、波が全部さらっていく。それは女性の固有性が、全部そのまま海に引き込まれていくこと。彼女のアイデンティティーと記憶と、彼女に対するかなわない気持ちがぜんぶ一連なりとして描かれていて、それはある意味西洋の歌にはない、日本語だとすっと私たちも理解できる感覚。

表現の不自由展・その後」について、記事後半でロバート・キャンベルさんは「政治と言論、政治と芸術を分けるという発想自体が、かなりオレンジに近い黄信号だと思っている」と語ります。

 日本語の強い、豊かな詞を英…

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