長野県伊那市は10月7日、定期路線バスを利用した移動する市役所「モバイル市役所」サービスの提供を発表。MONETおよびNTT東日本が事業を受託する。4月より事業化されているモバイルクリニックと合わせ、市民の利便性向上、生活・福祉の充実を狙う。

  • 発表会の様子。左から、NTT東日本 長野支店 支店長 榎本佳一氏、伊那市長 白鳥孝氏、MONET Technologies 代表取締役副社長 兼 COO 柴尾嘉秀氏

伊那市の「モバイル市役所」サービスとは?

2021年4月からオンライン診療専用車両で在宅患者の診察を行う医療MaaS「モバイルクリニック」を実現している伊那市。このたび、運行中の路線バスを改装し、朝昼は公共交通機関として、それ以外の運行時間外は行政MasS「モバイル市役所」として運用する計画を発表した。

  • モバイル市役所事業の発表会が行われた伊那市役所の本庁舎

事業は、伊那市基幹ネットワークのセキュリティ運用実績を持つNTT東日本、伊那市モバイルクリニック事業の実績があるMONETが受託する。

モバイル市役所には民間人材から登用される専門支援員(コンシェルジュ)が乗車し、オンラインで市役所窓口機能を提供。市役所職員とWeb会議でやりとりを行い、行政相談のほか、住民票や印鑑証明、所得証明、戸籍謄本・抄本、マイナンバーカードなどの交付、運転免許返納などの受付、期日前投票の受理などに対応する。利用の際は伊那市役所に事前予約を行い、地区ごとに予定を組んで運行する予定だ。

また搭載されるデジタルサイネージを利用し、市民への情報発信や広報活動、児童生徒の通学時には個別モニターを介してエデュテインメント型コンテンツも配信していきたいとする。さらに緊急事態の発生時には、緊急避難場所や情報連絡拠点、支援物資輸送などの防災対策業務も担う。

バスの愛称および車両デザインは、伊那市民もしくは伊那市に通勤通学している人を対象に公募。採用者には現金20万円や高遠さくらホテルペア宿泊券が贈呈される。

  • モバイル市役所として利用される循環バス

発表会において、伊那市長を務める白鳥孝氏は「この事業は国の地方創生推進交付金、Society 5.0の採択を受けており、市の持ち出しが5%と大変少額で実施できます。利便性の向上、生活の幸福度のアップだけでなく、福祉という視点からも大変重要な切り口だろうと思っております。SDGs、誰ひとり取り残さないという幸せな街作りのために、これから事業を始めていきます」と、そのメリットと目的について話した。

  • モバイル市役所事業を先導したという、伊那市長 白鳥孝 氏

路線運行のない時間を利用し地域にアウトリーチ

日本初となる伊那市の「モバイル市役所」サービス。ここからは、伊那市で新産業技術推進コーディネーターを務める小林宙氏、NTT東日本 松本営業支店のバリュークリエイト担当課長であり、防災士の資格も持つ池内俊之氏に詳しくお話を伺っていきたい。

伊那市は広大な敷地面積を誇り、山林地域だけで東京23区並みの広さがあるため、集落が各地に飛び散っている。そして日本全体でいえることだが、伊那市でも高齢者の比率が増えている。こういった課題を解決するためにコンパクトシティを目指す自治体も多いが、伊那市の行政の根底には、住民の意向を尊重するという考えがあるという。

「高齢者には『この地で一生暮らしたい』と仰る方が少なくありません。伊那市ではその意向を可能な限り汲み取り、モビリティやテクノロジーを使ってサービスを継続していくべきだと考えています。その第一弾がモバイルクリニックであり、このたびのモバイル市役所です」(伊那市役所 小林氏)。

  • 伊那市役所 企画部企画政策課新産業技術推進係 新産業技術推進コーディネーター 小林宙 氏

バスのマルチユースによる有効活用のアイデアが生まれた理由は、昼間の時間帯のバス利用率の低下への対応が発端とのこと。山間部路線のバスは朝晩の通勤・通学の市民の足として重宝されている反面、昼間の時間帯は乗客0の日も多くなった。

伊那市は2019年から運行している自動配車型乗合タクシー「ぐるっとタクシー(ドアtoドア型乗合タクシー)」を運行しており、2021年10月よりバス利用者の少ない昼間の時間帯はバス運行を停止し、利便性の高いぐるっとタクシーのサービスエリア範囲を高遠町地区まで拡大した。昼間は運行を停止したバスの有効を目指したのがそもそものきっかけだ。

「ニーズが多いのは福祉や相続などのご相談です。各集落や山間部にお住まいの方、とくに運転免許を返納された高齢者などは、市役所まで足を運ぶのは大変です。『こういったサービスが出前のように来てくれるようになり、そこで用事が足りるのは非常にありがたい』という期待のお声をいただいています」(伊那市役所 小林氏)。

VPN回線を使ったセキュアな環境を整備

モバイル市役所事業を行うにあたり課題となったのは、やはり住民票をはじめとした機微な個人情報の印刷だ。当初はコンビニに設置してあるようなキヨスク端末を思索し提供ベンダーに相談したが、「走行するバスの衝撃等に対応した設計ではない」ということで断念。だが伊那市は総務省ともやりとりを重ね、実現の道を探る。

最終的には、コンシェルジュと市役所職員がWeb会議でやりとりを行い、職員が必要に応じてVPN接続で各種書類の印刷データをバスに送信するという仕組みが採用された。

「運行前ですので技術・立地面の影響を計るのはこれからですが、現在のところ電波状況の良くない地域はサービスエリアに含まれていません。むしろ一番重要なのは行政サービスを実現するためのセキュアな通信環境です。個人情報は絶対に外部に漏れてはいけないし、総務省も一番そこを気にかけていました。インターネットとは別に、伊那市役所とバスをセキュアに結ぶことが今回の大命題だったのです」(NTT東日本 池内氏)。

  • NTT東日本 松本営業支店 バリュークリエイト担当 担当課長 池内俊之 氏

VPNとは、インターネット上に仮想の専用線を設定し、特定のユーザーのみがやりとりできるようにする専用ネットワーク。民間企業ではすでに広く利用されており、近年はテレワーク等のニューノーマルな働き方でも活用されている。とくに今回のモバイル市役所のように、庁舎外で交付、受付、受理にまで対応し、バスの中だけで手続きが完結できる例は全国で初といえる。

「『バス側には情報を一切置かず、あくまでプリンタがあるだけ』というのがポイントです。データは市役所側にあり、通信制御も行うためバス側のプリンタを弄っても、盗まれても、個人情報が漏洩することはありません。このような事業を実現できたのは、伊那市の基幹ネットワークを受託いただき、庁内の仕組みをよく理解しているNTT東日本さんの力が大きいと思います。こちらのやりたいことのイメージに対する可否をレスポンスよく返してくれました」(伊那市役所 小林氏)。

  • モバイル市役所事業のサービスおよびネットワーク概念図

最後にお二人から本事業の意義、そして住民のみなさんや全国の自治体へ向けたメッセージをいただいたので、ご紹介しておきたい。

「全国に先駆けた事業ということで、いきなり100%のサービスは難しいかもしれません。ですが、実際に運行しながら市民の声や改善要求を取り入れ、他の自治体にお住まいの方にも『取り入れて欲しい』と思ってもらえるようなサービスにしたいですね。我々スタッフも実際に使われるサービスを目指して取り組みを続けていますので、市民のみなさんには積極的にご利用いただきたいと思います」(伊那市役所 小林氏)。

「行政は基本的に申請主義ですので、自ら住民の元に赴くサービスはこれまでありませんでした。情報セキュリティはより重要性を増すことになりますが、身近なところで手続きができる、コンビニ感覚に近いサービスを行政が始めたというのは大きな一歩だと感じます。とくに山間地ではこのようなサービスが望まれていますので、全国の自治体にも広まればいいなと思います」(NTT東日本 池内氏)。