ソ連兵に狙撃された傷跡と共に生きた戦後75年…俳優・宝田明が問う「不戦不争」と「平和憲法」

北村 泰介 北村 泰介

 75年前の満州(現中国東北部)では、8月15日を過ぎても「戦争」は終わっていなかった。当時11歳だった俳優の宝田明はソ連兵に狙撃され、麻酔もせずに銃弾を取り除いて一命を取り留めたものの、その傷跡は86歳になった今も魂の奥深くに残る。全国順次公開中のドキュメンタリー映画「沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(太田隆文監督)でナレーターを務める宝田が当サイトの取材に対し、自身の戦争体験を踏まえ、終戦の日に「不戦不争」を訴えた。

 1934(昭和9)年、日本統治下の朝鮮に生まれ、旧満州のハルビンでは満鉄の社宅に住んだ。「8月15日の翌日からハルビンは無政府状態となりました。私はソ連軍入城から、強盗、略奪、強姦…といった行為を目の当たりにした少年です」。シベリア抑留される日本兵が乗せられた貨車を見つけた宝田少年。「その中に兄がいるかも」と近づいた、その時だった。

 「ダダダダダダッ!とソ連兵が撃ってきた。私は転がるように四つんばいで逃げ、中国人の家に隠れたりして、ほうほうのていで帰ってきたら体が血だらけになっていた。弾が大地に1回バウンドして脇腹に入ったようなのです」

 病院はすべて閉鎖されていた。「3日目には化膿して腐ってきた。家の常備薬はオキシドールとかヨウチンしかなく、化膿の進行は早い。元軍医だった人を呼んで、私はベッドに縛り付けられ、裁ちばさみを熱く焼いて消毒。『歯を食いしばって頑張れ、日本男児だろ』。麻酔もせずに、元軍医さんは十字に切って弾丸を取り出した。半分失神しかけながら、人間の肉を切る音は今も耳に残っています。ラシャの生地を切るみたいにジョリジョリと…。ダムダム弾という、国際法で使用が禁止されている鉛の弾。すぐ腐り、鉛の毒は体内ですぐ化膿する。75年間、今も天候によって傷口が痛みます」

 それ以前にも、夕食中の自宅に侵入したソ連兵に銃を突きつけられる体験があった。その記憶は沖縄戦の映像にも重なった。

 「全身泥まみれになった沖縄の5歳くらいの少女が恐怖のあまり、ガタガタ震えている米軍撮影の記録映像があるのですが、私も満洲時代、自宅で父母、兄弟と夕方にカレーライスを食べていると、ソ連兵2人が銃を構えながら入ってきて、自動小銃を突き当てられた時、歯の音だけがガタガタと鳴った。震えて歯がかみ合わないのです。彼らは室内を物色し、時計などを奪って出て行きました」

 沖縄戦では20万人以上の戦没者のうち、沖縄県出身者が12万2282人(沖縄県生活福祉部76年発表)。当時、約8万4千人の疎開者を除いた沖縄県の人口は約51万人で、約4人に1人が亡くなったことになる。そのうち、女性や子供ら一般住民の死者は約9万4000人。映画「沖縄戦」には12人の体験者らが登場。「集団自決」という表現で語られてきた民間人の悲劇が、実際は「集団強制死」であった側面なども検証している。

 「戦中の沖縄の状況を聞くにつけ、数々の日本軍の横暴な行動による死傷者の話に涙しました。果たしてこの責任は誰が負うべきなのか。日本は沖縄を防波堤のように思っていた。現在も在日米軍基地の7割が沖縄にあり、住民の多くが辺野古基地の拡張に反対する中での現状がある。戦争は2度とやってはいけない。その戒めになる、貴重な作品だと思います」

 そう語る宝田に「戦争はなぜ起きるのか」と問うと、「人間のエゴです」と即答した。2014年には医師の日野原重明氏、作家・澤地久恵氏との共著「平和と命こそ―憲法九条は世界の宝だ」を出版。その3年後に105歳で死去した日野原氏について、宝田は「人の命を貴ぶことを常に考えていらした」としのんだ。

 「今まで平和憲法という大事なものをウイスキーの原酒のように樽に収めて鉄のタガをはめ、70数年寝かせて中身はいいモルトになっているが、戦争を知らない代議士らが350万人以上の犠牲者を出したこの前の戦争を勉強せず、憲法9条のタガを外そうとして原酒が漏れかけているのが今の状況です。漏れてしまったものは戻らない。僕はそれが一番怖いので、自分が体験した戦争の愚かさ、反省を若い人たちに伝えていきたい。役者になって65年。あと4年で90歳ですが、ひと時も戦争の残酷さ、みじめさを忘れません」

 軍国少年は75年前の8・15に「ガシャンとエンストを起こして」生まれ変わった。脇腹の傷跡と共に生きた75年。残された人生も「不戦不争」に捧げる。

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