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司会者「有吉弘行」が求められる理由 戦後から続く「毒舌」の系譜

“毒舌”でブレークした有吉弘行。地上波だけでも9本の番組で司会を務める
“毒舌”でブレークした有吉弘行。地上波だけでも9本の番組で司会を務める 出典: 朝日新聞

目次

テレビ番組の司会者は、ある意味で時代の顔と言える。より多くの視聴者の心をつかみ、ガス抜きの役割を担い、程よい笑いを交えながら進行する業は並大抵ではない。とくにコンプライアンスの厳しい時代になってからは、司会を担える人間はごく限られている。そのなか、活躍しているのが“毒舌”でブレークした有吉弘行(45)だ。現在、地上波だけでも9本の番組で司会を務め、長く君臨し続けている。なぜ彼はそこまで求められるのか。過去の名司会者の系譜をたどりながら、その違いと共通点に迫る。(ライター・鈴木旭)

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衝撃的なデビューを飾ったトニー谷

司会者でありながら、お茶の間に爆笑を呼び起こした第一人者と言えばトニー谷だ。もともと劇場で演出助手をしていたが、進駐軍相手の慰問芸能団編成にかかわって芸能人とのコネをつくり、その後は司会者に転身。1949年に日米野球の司会の代役として出演し、英語と日本語の入り交じったしゃべり(トニングリッシュ)で衝撃的な芸人デビューを果たした。

「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」といったフレーズ、「さいざんす」「おこんばんは」などマダムとの会話からヒントを得たしゃべり、「家庭の事情」といった流行語を生み出して人気が爆発。ジャズコンサートの司会者として引っ張りだこの状態に。赤塚不二夫のギャグ漫画『おそ松くん』で、トニー谷をモチーフとした「イヤミ」というキャラクターが登場するなど、当時の影響力はすさまじいものがあった。

そろばんをかき鳴らしながら歌って踊る珍芸で有名だが、さらに支持を集めたのは共演者や視聴者をこき下ろす「毒舌」だった。芸人仲間の痛いところをついて怒らせ、女優へのセクハラやパワハラ、世間を小バカにする態度をとるのが常だった。

『おそ松くん』の「イヤミ」のモチーフにもなったトニー谷
『おそ松くん』の「イヤミ」のモチーフにもなったトニー谷 出典: 朝日新聞

誘拐事件経て、漫才ブームで再評価

行き過ぎた毒舌キャラによって、人気は徐々に下降線をたどっていく。そんな矢先、1955年7月にトニー谷の息子(長男)が誘拐される事件が起こった。

息子は無事救出されたが、犯人が犯行動機として「トニー谷の人を小バカにした芸風に腹が立った」と語ったこと、事件を大々的に報道したテレビによって、内密にしていた出自・前歴などが露呈されてしまったことで、事実上の休業状態に陥る。

その後、1962年から活動を再開するも、1970年代に入って人気は低迷。1980年代の漫才ブームで改めて毒舌にスポットが当たり、トニー谷は再評価されることになった。

保護されて自宅に帰ってきた長男を抱くトニー谷
保護されて自宅に帰ってきた長男を抱くトニー谷 出典: 朝日新聞

毒舌の流れを引き継いだ大橋巨泉

トニー谷の人気が下降すると、反比例するように毒舌で頭角を現したのが大橋巨泉だった。もともと大学時代からジャズバンドのコンサートで司会を務めるなど、その下地はトニー谷と酷似している。異なるのは、巨泉がジャズ評論家・放送作家からテレビの司会者へと転身した点だ。

1960年代~1980年代に人気を博した深夜番組『11PM』(日本テレビ/読売テレビ)で司会者として好評を博すと、1976年に『クイズダービー』(TBS系)、1983年に『世界まるごとHOWマッチ』(前・同局)がスタートするなど、活躍の場を広げていった。

七三分けに黒縁メガネというスタイルでありながら、物事をすべて熟知しているかのような高慢な態度。番組では上から目線の物言いで、ことあるごとに「バカヤロー」と言って毒舌を吐いた。ただし、そこに裏打ちされている博学さには説得力があり、希代の司会者として地位を確立していった。

ジャズ評論家・放送作家からテレビの司会者へと転身した大橋巨泉
ジャズ評論家・放送作家からテレビの司会者へと転身した大橋巨泉 出典: 朝日新聞

「毒舌+企画力」で支持されたビートたけし

巨泉の活躍から少し遅れて登場したのがビートたけしだ。1980年代初頭の漫才ブームでツービートのボケとして注目を浴び、過激な毒舌ネタで若者から絶大な支持を集めた。

その後、1983年に『スーパージョッキー』(日本テレビ系)、1985年に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(前・同局)、1986年に『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS系)といった番組がスタート。どれも立て続けにヒットし、バラエティー番組の司会者として人気を博した。

司会という立場になって以降、たけしは毒舌というだけでなく、一歩引いたところで番組を盛り上げることになった。実際に『たけし城』『元気』では、たけし自身が番組の企画・構成を担当している。キャリアの流れこそ違うが、この点は巨泉と共通する部分だ。

先に触れた『世界まるごとHOWマッチ』では、文化人枠の回答者として出演している。巨泉とたけしが“毒舌合戦”を繰り広げる場面も番組の見どころの一つとなった。

毒舌だけでなく、一歩引いたところで番組を盛り上げたビートたけし
毒舌だけでなく、一歩引いたところで番組を盛り上げたビートたけし 出典: 朝日新聞

ジャズバンドの司会者だったタモリ

1980年代、たけしと同時期に頭角を現したのがタモリだった。もともと高校時代から吹奏楽部でトランペットを担当していたが、大学のモダン・ジャズ研究会に入ってから「お前のラッパは笑っている」との指摘を受けて、バンドマネジャーと司会を兼務することに。当時から、司会の軽妙さが評判だったようだ。

その後、大学を中退(除籍)。いったん福岡に戻るも、1972年に行われた渡辺貞夫のコンサート終了後、ひょんなことから山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)とホテルの一室で居合わせ、中村と「即興芸を披露し合う」という実に奇妙な出会いを果たす(山下洋輔の著書「ピアノ弾き翔んだ」(徳間文庫)より)。

その後、山下、およびその仲間から熱烈なオファーを受け、ほどなくタモリは上京。この流れで、奇しくもトニー谷を模したキャラクター「イヤミ」の生みの親であるギャグ漫画家・赤塚不二夫に才能を見込まれ、芸能界入りの道筋ができた。

赤塚不二夫に才能を見込まれ、芸能界入りしたタモリ
赤塚不二夫に才能を見込まれ、芸能界入りしたタモリ

『笑っていいとも!』で光った巧みなトーク術

1970年代後半は「インチキ牧師」「イグアナの形態模写」「ハナモゲラ語(デタラメ言語)」といった特殊な芸で深夜番組に出演。そんなイメージを一新し、1982年からスタートした『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系・2014年3月終了)でお昼の顔となった。

『笑っていいとも!』では、ゲストによってトークを使い分け、時に毒を吐き、時に道化を演じて、お茶の間の笑いを誘う名司会者っぷりを発揮した。また、生放送中のハプニングを楽しむスタンスは、ジャズバンドの司会者という下地を思わせた。いわゆるお笑い芸人とは違った魅力がタモリにはあったのだ。

トニー谷の「妙な英単語を混ぜたしゃべり」とタモリの「ハナモゲラ語」。どちらもインテリジェンスを感じさせる芸である。また、大橋巨泉を含めた3人が、寄席ではなくジャズに触れているという点も実に興味深い。

ジャズバンドの司会者という下地を思わせる魅力があったタモリ
ジャズバンドの司会者という下地を思わせる魅力があったタモリ 出典: 朝日新聞

「あだ名芸」で再浮上した有吉

1990年代に入ると、お笑い芸人や役者、フリーアナウンサーなど、幅広いジャンルの芸能人がテレビ番組の司会を務めるようになった。2000年代には、ダウンタウンを中心としたお笑いの影響からか、テレビ番組が一様にしてバラエティー色を強めていく。しかし、真新しいスタイルの司会者が登場することはなかった。

そんなときに現れたのが、「あだ名芸」「毒舌」で2000年代後半に再ブレークした有吉弘行だった。

1994年、有吉は地元(広島県)の同級生・森脇和成を誘ってお笑いコンビ、猿岩石を結成。1996年に『進め!電波少年』(日本テレビ系)の「ヒッチハイクでユーラシア大陸を横断する」旅企画にチャレンジして注目を浴びた。帰国後は、秋元康プロデュースのもと「白い雲のように」で歌手デビューし、ミリオンセラーを達成。ヒッチハイク企画について記した書籍『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部を突破するなど、アイドル的な人気を博した。

ところが、いったんブームが去ると人気は急降下。テレビ番組の露出は激減し、2004年にコンビは解散してしまう。ピン芸人になった有吉は、しばらく苦難の道を歩むことに。しかし、2007年にようやく再浮上の糸口をつかむ。それは、共演者に辛辣(しんらつ)なあだ名をつけて爆笑を起こす「あだ名芸」だった。

「あだ名芸」「毒舌」で2000年代後半に再ブレークした有吉弘行
「あだ名芸」「毒舌」で2000年代後半に再ブレークした有吉弘行 出典: 朝日新聞

低迷期“活字中毒”によって才能が開花

人気が低迷していた時期、有吉は自宅にこもって、ひたすらテレビ番組に文句を言い続けていたそうだ。 その頃の心情を男性向けファッション・カルチャー雑誌『GQ JAPAN』での対談のなかで明かしている(公式サイトでは2012年12月に掲載)。

対談相手であるプロデューサー(元放送作家)のおちまさとから、低迷期の生活について話を振られると「テレビしかやることないですから。朝から放送が終わるまで、ずっと見てました」と有吉。その後、おちが「それで画面見てぶった斬って、あだ名つけて」と補足したところで「怨念ですよね、屈折もしてましたし」と当時の状況を赤裸々に告白している。

その行為こそが「あだ名芸」「毒舌」へとつながっていった。また、一般視聴者が「なにを思うのか」「なにを言いたくなるのか」という目線は、ここで認識することになったのではないだろうか。

先述した大橋巨泉は、あらゆるジャンルの知識とともに、国際的な視点を持って「ここがおかしい」と毒を吐いた。まるで好景気にふんぞり返る日本をあざけ笑うかのようなスタンスだ。対して有吉は、好感度の高い人気タレントや鼻持ちならない芸人、アンタッチャブルな大御所に噛みついて再ブレークしている。視聴者が心のどこかで感じていた“きな臭さ”を、「これがお前の本性だ」とばかりに見事に毒舌で切り取った。暗いニュースばかりでリーダーシップをとれない日本に対して、不満をぶちまけてくれているかような痛快さがあった。

日本をあざけ笑うかのようなスタンスで毒を吐いた大橋巨泉(左)、視聴者が心のどこかで感じていた“きな臭さ”を毒舌で切り取った有吉弘行(右=鈴木好之撮影)
日本をあざけ笑うかのようなスタンスで毒を吐いた大橋巨泉(左)、視聴者が心のどこかで感じていた“きな臭さ”を毒舌で切り取った有吉弘行(右=鈴木好之撮影) 出典: 朝日新聞

もう1つ大切な要素として、漫画や活字好きという点が挙げられる。2010年10月に放送された『ゲツニチ』(フジテレビ系)の密着取材の中で有吉は「活字中毒なんですよ。メシ食ったりするときに、だいたいなにかないとダメなんです」と語っている。現在、さまざまな番組のトークで博学な一面をうかがわせているが、あらゆるジャンルに詳しいのは、こうした素地があってのことだろう。

テレビ番組における司会者の個性は、時代の流れとともに変化していった。しかし、共通するのは「知的でありながら、視聴者の心をつかむ毒と話術」を持っていることだ。時代の風潮を敏感に察しながら、常に視聴者の一歩前を走る存在。それが名司会者に求められる条件なのだろう。

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