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2008年05月05日18:48

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コンヴィチュニー『アイーダ』をめぐって(芯のない話)

しばらく前にどこかに書きましたが、ペーター・コンヴィチュニー演出の『アイーダ/ヴェルディ』東京公演をご覧になった方が、私の少ないmy mixiの中で3人もいらっしゃって、いろいろ会話をさせて頂いた事もあり、何らかの演出による同オペラをまた観てみたいと思っていました。
以前、R・ウィルソン演出,大野和史指揮,ベルギー王立歌劇場のDVD(’07.3.12の日記→http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371809408&owner_id=3341406)を観ています。
浜松市下の図書館の蔵書の中に、他にないだろうかと探して見つけたのが、このビデオです。

演出 ソンジャ・フライセル
指揮 ジェームズ・レヴァイン
演奏 メトロポリタン歌劇場管弦楽団
出演
アイーダ/アプリーレ・ミッロ(s)
アムネリス/ドローラ・ツァーイック(ms)
ラダメス/プラシード・ドミンゴ(tn)
エチオピア王アモナズロ/シェリル・ミルンズ(br)
祭司長ランフィス/パータ・プルチュラーゼ(bs)
エジプト王/ディミトリ・カヴラコス(bs)
1989年メトロポリタン歌劇場ライブ収録

付いてきたノートが大変頼りないもので、不可欠な項目の落ちが多く、ネットで併せて調べる等して、上のデータはやっとまとめました。間違いがあるかも知れません。ツァーイックをザジックと記しているサイトもありました。その他、何かとご指摘下さい。

今回の鑑賞のテーマは、コンヴィチュニーを起点にして観る、という事です。とは言ってもコンヴィチュニーは観ていない訳でありまして(笑)、my mixiの皆さんに教えて頂いた事、貸して頂いたパンフレット等を頼りに、コンヴィチュニーを想像逞しくして書く次第です。まあ、恥知らずな事。
コミュニケーションによって、いろんな面を補正しフォーカスできていけたらいいなあ、と思っていますので、宜しくお願い申し上げます。

さて、コンヴィチュニーが批判しているいわゆる”スペクタクル・オペラ”と呼ぶべき類に、このビデオも属するのでしょう。セットの壮大さ、エキストラの人数等、盛時のハリウッド映画を観るようです。特に2幕2場、テーベの城門における凱旋の場面等最たるものです。アメリカ人観客が喜びそうな演出です。
私もこういうこけおどしは好きではありません。

しかし、だからと言って、このオペラの”室内劇”的側面、”心理劇”的側面が描けていないかと言うと、決してそんな事はありません。
2幕1場の、アムネリスとアイーダの胸中の言葉を歌い合わせる部分等、2人の心理の妙が伝わってきます。
また、出だしの序曲も無闇に華美を狙わず、弦だけのアンサンブルも室内楽的な繊細さを持っているように思えます。
4幕1場のアムネリスのアリア、同2場のアイーダとラダメスのデュオ、そしてそれに加わってくるアムネリスの呟き等も、3人の思いに共感を抱かせるに充分です。
凱旋の場面の壮麗さを際立たせる事で、反対にそういう微妙な陰影をより判り易くするという手法もある、という事を理解しました。

ここには、歌手の表現力が大変重大なポイントになります。それが伴わないと、この陰陽を照らし合わせる手法は成功しません。
今回のビデオでは、ミッロとツァーイックの歌唱力に感じ入りました。
特にミッロの高音部、その弱音の抑制された美しさや透明さには、アイーダの宿命が宿るようで、涙が出ました。
またツァーイックも、単なる類型的な上位階級の敵役に堕す事なく、死に究極の救いを見出すアイーダとラダメスの2人の心理に、次第々々に沿っていく様子が、しみじみと伝わってきました。
(ミッロとツァーイックについては、殆ど知識を持ちません。)

こうして振り返ってみると、コンヴィチュニーの狙う主旨は、その通りだと思うのですが、コンヴィチュニー演出によってしかそれが達成できないという訳でもない、そんな風に思えました。
過ぎたスペクタクル性、イヴェント劇性は確かに問題がある。ヴェルディの思いもそんなところにはないと思います。

・・・まあ、コンヴィチュニーを観ていないで書けるのはこの位でしょうか。
1幕2場、プタハ神への戦勝祈願儀式で、巫女とのセックスによって体制に取り込まれていくラダメスのありよう、そして2幕2場、戦争勝利によってきたす彼の内的変化、また、思いもよらずエジプト民衆からエチオピア捕虜の助命の声が起った時の王達の反応、等々、インタビューでのコンヴィチュニーの発言については、是非この目で確認してみたいと思いました。

概して、2人の女性とは反対に、ラダメスという男性は、メト版では表現しきれていない、そんな感がありました、名手ドミンゴによってさえも。恐らく、これはヴェルディ原作の、瑕疵とは言わない迄も、1つの傾向ではないかと思います。”類型”から”典型”への昇華ができていない、そんな欲求不満が、観終わって、胸にモヤモヤした感じとして残ります。
コンヴィチュニーの演出は、果たしてこのモヤモヤを解消してくれるのでしょうか。
 
写真は1がメトのアイーダから。
2はコンヴィチュニー版の1場面。
 
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