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2008年01月24日22:35

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九州回想7  三日目:日平、真弓

【平成20年1月6日】
昨晩は小林インターから高速に乗り、再び延岡まで戻ってきたのは23時前だった。この日は延べ500キロあまりを走行したことになった。
松江からの夜行以来睡眠不足が続いたうえに、神経をすり減らすような崖っぷちの悪路難路ばかりでほとほと疲れきってしまい、せっかくの米良行きも達成感は無かった。ただ無事山から下りてきたことだけを喜んでいた。

九州最後の3日目、朝はゆっくりと9時前にホテルを出て、延岡市立図書館に向かった。
1週間ほど前に島根県邑智郡の山深くにある銅ヶ丸鉱山跡で明治・大正時代にあった「私立小学校」跡を確認できた。その後ネットの検索で同じような学校を調べると、唯一ヒットしたのが宮崎県北方町(現延岡市北方町)だった。
まるで今回は、西米良村尾股といい、導かれるようにして宮崎県に来た気分である。
今日はその学校「私立日平(ヒビラ)尋常高等小学校」の資料を探すことから始めることにした。

北方町史によると、この学校は日平鉱山に附属して設立された私立小学校だった。この鉱山は明治18年旧延岡藩主内藤家の所有に戻り、日清・日露の戦役を経てずいぶんと栄えたようだ。日平尋常小学校(後に高等科を併設)は、明治29年、この鉱山を経営する内藤家が鉱山労働者の子弟教育のために私費を投じて設立したのだという。そしてこの学校は、日平鉱山廃坑に伴って大正7年に廃校となった。
この歴史は、島根の銅ヶ丸と非常によく似た経過をたどっているのに気付いた。また、両鉱山とも主要鉱産物は銅であった点も共通していた。
銅ヶ丸では、明治20年当地の大地主・堀家が取得して、明治25年銅ヶ丸尋常小学校を設立(高等科は最後まで設置されなかった)、明治40年銅価暴落で鉱山が操業休止したところに明治42年工場焼失、そのまま廃鉱になり、小学校も大正4年3月で閉じられた。
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旧家の経営する山がいずれも明治を最盛期として消えていったという不思議な共通性を感じながら、北方町史に載っていた写真だけを頼りに日平地区に向かった。

日平地区の13世帯(平成19年延岡市資料によるH17国勢調査結果)は鹿川沿いにあって、裏山は断崖のような地形だった。
町史の写真では、稜線からつづくなだらかな斜面に学校が建っており、今の集落とは違って山頂近くにあったのではないかと考えられた。
槇峰鉱山跡(美々地小学校付近)から谷を上り、林道伝いに行くと間もなく写真に似た山容が見つかった。杉木立の林間には広い平場もあって、それが学校跡のように思えるが、現地には記念碑など何も見あたらず、一応候補地としておくことにした。
(槇峰鉱山は、もと日平鉱山の一部だったようで、「日平鉱山製煉所跡」の川向かいに「槇峰鉱山製煉所の跡」があって、そこでは現在も三菱の坑排水処理場が動いている。ここは明治22年に三菱が経営を始めて昭和42年まで操業した)

今日は島根まで帰らなければならないのに、13時にしてまだ日平だった。おとといあきらめた日之影町の見立鉱山は、どうにも時間がとれそうにないと分かってきた。
大急ぎで延岡市内に戻り、食事をとって国道10号を北上し始めたのは14時を回っていた。

旧北川町で国道326号に入り大分を目指すが、これは九州初日と逆方向に向かっているが、全く同じ道のりである。
別府あたりで湯に浸かり、体を憩ってから帰ろうかとも思っていたが、このコースとなれば、もう宇目(現佐伯市)の真弓分校に立ち寄ってみるしかない、とさっそく観念してしまった。

宇目町立小野市小学校真弓分校。
旧版地図では集落南西の外れにひっそりと文マークが書いてあった。ネットの地図で調べると、まだ何軒かは家があるように思われた地区だった。
道路地図で見ると、今も当時と変わらない細い道がくねくねと真弓まで続いているようだが、昨日の小椎葉の市道を経験してしまえば何のためらいも持たなかった。実際、道幅は3〜3.5メートルはあって快適そのものだった。
木々に覆われた急坂をしばらく上っていくと、急に空が開けて家が見えた、真弓に出たのだ。傾斜のきつい小さな谷川の両岸に開けた集落だった。
その入口付近に車を置いて、イヌに吠えかけられながら、歩いて一番上手の家のさらに先を目指した。数えてみると家は4軒ほどだが、どれもきれいな家ばかりだった。
道は、上手の家の前から舗装がなくなり、畑道のようになった。本当にこんな所に学校が…?、と思った瞬間、高台に崩れかけた屋根が見えた。まさか。
切り妻屋根の妻側ををこちらに向けている建物は、学校の一部と見える。近づこうとしたが、石垣と石垣の間に竹や網で柵がされてそれ以上進むことができなかった。

別な角度から眺めてみようと来た道を引き返すと、あるお宅の庭で木樽を転がす音が聞こえたので、おばあさんに声をかけた。今まで九州の山のほうでは、方言がきつく聞き取りにくいことが多かったため、つい話をためらっていたのだが、意外やこのおばあさんは標準語のような発音で話していただけてほっとした。

うかがったお話では、やはりあれが学校なのだそうだ。真弓地区も今は4軒になったが、昔は8軒あり、藤河内(フジガワチ)からも通ってきていたそうで、多い時には生徒も40〜50人いたそうだ。
藤河内も以前行ったことがあるがそこも4軒だけの集落で、昔もそんなにたくさん家があったとは思えない土地だった。この2地区にしては生徒の多さを不審に思ったが、それは「1軒の子供も多かったが、山仕事に来た人たちが山中に小屋掛けしていて、そこから子供がたくさん通ってきていた」からだという。林業集落の学校の亜種といった趣でもあったようだ。それならと思い、住所地番不明でまさに林業集落の学校らしい板戸山分校(廃村コミュにもそう書いてあった)のことを訊いてみたが、名前を聞いたことはあるが場所は知らないと言うことだった。
柵はシカ除けに作ったそうで、作物を荒らすので集落を囲むように柵や網やらを設置しているのだそうだ。学校は藤河内に向かう道路からよく見えるといわれ、お礼を言って別れた。
少し高見の位置からは、さっきの建物が1棟だけあるのがよく見えた。崩壊が進んできているが、屋根の高い様子は講堂跡のようにも見えるが、玄関のようなものがあったりして、校舎だったとも思える。校庭の隅には雲梯がひとつ錆び果てていた。

帰りには、道沿いのパイプから豊富に流れ出ている真弓の湧水(おばあさんの「うちの山から出ている山水」。ネットには湧き水とあったが?)をペットボトルに汲んで持ち帰ることにした。

九州で温泉に入らなかった旅など、これが初めてではないだろうか。当初考えていた温泉巡りもどこかに消し飛んでしまって、全てが廃校と廃村に彩られた旅となった。
別府は通過し、山口で湯に入ろうかとも考えたが、もうそれどころでない時間で、23時、ようやく島根に帰り着いた。

この3日間で1600キロを走り、無茶が過ぎて疲労もピークといった状態だったが、思い返せば強烈なほどに新鮮で楽しい時間だった。
特に米良地方は、その北隣椎葉村が柳田民俗学で狩猟習俗いまに残るところとして、民話の遠野と並び称された地域である。米良地方にしてその習俗に大きな変わりがあろうはずもない。
今回それを目指して行ったわけではないが、行く先々であれだけたくさんの狩り(とイヌ)の現場に出合ったことは、その称賛された狩猟習俗のほんの一部を垣間見たような気にさせる。ここ一帯の九州山地は、山岳狩猟文化が今も息づくまさに民俗学の聖地なのかもしれないと思った。

繰り返しになるが、せっかくの九州で温泉を欠いたことはいささか残念であったが、それにも増して、気になる土地土地を大いに巡ることができ、さまざま様子を見て体験したことは、一生深く記憶に残るに違いない。
またいつかこの地域に足を運ぶ機会があれば、今回果たせなかったところも含め、より掘り下げて調査してみたいと強く思った。
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