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2007年05月25日09:41

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右京は衰退したのではない!

え〜と 平安京妄想説第2弾です(^^)ゞ

平安京右京は早くから衰退していたことは良く知られていますが、そもそも都市空間として右京は成立していたのだろうか?という疑問です。

慶滋保胤が「池亭記」を著し,右京の衰退と左京北部の繁栄を記録しのは天元5年のことで遷都より200年後のことですが、それ以前から人家の密集した都市空間があったのだろうか、また都市を作る気があったのだろうかということです。

確かに西市周辺には人家が密集していたことが発掘により明らかにされていますし、御前御池の発掘でも平安初期には民家があったことが知られています。ただこれらの地点は巨大施設のすぐ傍であり−西市・朱雀院−付属的なものとも思えます。

今回の地下鉄西進でも目立った遺跡・遺物は西京高校で見つかったもの位しか聞き及びません。つまり都市空間は成立せず、田園地帯だった可能性が大きいのです。田園地帯が多かったことの傍証として遷都より30年後、造宮職が廃されてからは僅か20年後に左右京職に京中にある空閑地を調べさせて各地主に耕作させることが命じられています。どうやらこれも後追いで既に耕作されていた可能性が強いとも聞きます。

そもそも平安京を葛野愛宕の地に招聘した秦氏の本拠は言うまでも無く太秦近辺です。大堰川に葛野大堰を築いたのは遷都よりも300年以上も前のこととされています。つまり遷都前は京都の西側の方が先進地帯であった可能性が強いのです。

しかし当時の先進地帯とは、と考えて納得しました。「米が多量に収れるトコロ」なのです。秦氏の3世紀以上にも渡る開墾経営で右京及びその西側は穀倉地帯だったのでしょう。それを潰して人家を建てることは生産能力が極端に落ちます。それを残して高台の左京や二条以北にしか都市空間は成立しなかったのでは−というのが今回の妄想(笑)

右京が湿地帯で棲む人がすくなくなった とは良く聞く言だがはじめから住まず(大路・小路だけが整備され)水田地帯だったからワザと水が溜まるようにしたのではとも思えます。ちなみに堀川より東は井戸が浅くても水が湧くがそれより西は深くないと湧いてこないと聞いたことがあります。ならば東の方が湿地帯とも思えたのですが…

画像は平安京模型−
左が右京二条大路を、右が四条淳和院を西より眺めたもの
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