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2017年09月10日12:01

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 【質問】 朝倉孝景って誰?(下書き)

 【質問 kérdés】
 朝倉孝景って誰?

 【回答 válasz】
 朝倉孝景(1428〜1481)は越前守護・斯波氏の3家老の一人.
Aszakura Takakage (1428 -1481) egyike az a Siba klán három magas rangú hűbéreseinek, aki a Ecsizenben Sugo (feudális kormányzó).
 戦国大名・朝倉氏の祖.
(図1 孝景肖像画)

 長禄2(1458)年,斯波義敏と越前守護代・甲斐常治との戦いである長禄合戦において,孝景は守護代方の主力として活躍.
 翌年の足羽郡和田荘の戦いにおいて勝利し,守護方についていた義兄の堀江利真と,叔父である朝倉将景を敗死さす.
 長禄合戦勝利後,反孝景派であった一族分家の朝倉将景,朝倉景契,朝倉良景などを討ち果たす.

 また,孝景と甲斐氏は越前の軍勢を率いて鎌倉に出兵して1年近く在陣し,堀越公方・足利政知(足利義政の弟)を支援.
 そして,政知を補佐した渋川義鏡の子・義廉(よしかど)が斯波氏の当主に起用され,朝倉孝景と甲斐敏光がこれに従うことになった.
 巻き返しを図る斯波義敏は足利義政から赦免され,文正元年(1466),義敏は越前・尾張・遠江の守護職に復帰したが,たちまち失脚して越前へ逃げ下った.

 文正2(1467)年,御霊合戦に参陣し,畠山義就に加勢.

 応仁元年(1467),応仁の乱が勃発すると,孝景は主家である斯波義廉と協力し,西軍に参陣.
 上京の戦い,相国寺の戦いなどに参加し,伏見稲荷では骨皮道賢を討ち取るなどの功を挙げる.

 しかし越前の在地では斯波義敏が勢力を伸ばしており,また,東軍方からの働きかけもあって,応仁2(1468)年,孝景は嫡子・氏景を京都に残して越前に下国.
 孝景は坂北郡の深町氏などの有力国人や大寺社を味方に誘い,幕府との交渉を重ねて,文明3(1471)年5月,
「越前の守護職については孝景の望みに任せる」
という足利義政の御内書を獲得して,東軍へ寝返る.
 同様に氏景も東軍へ寝返り,足利義政に見参して越前へ下国した.

 そして孝景は越前平定に乗り出し,守護代・甲斐敏光(甲斐常治の子)勢と交戦.
 文明4(1472)年,越前・府中を陥落させ,坂井郡長崎庄での戦いにも勝利し,敏光は加賀に逃れる.
 文明6(1474)年,敏光は富樫幸千代の援助を受け,越前へ逆襲.
 しかし孝景は杣山(そまやま)城にたてこもった甲斐勢を掃討すると共に,また殿下・桶田口から岡保・波着山まで深く侵攻した甲斐氏や千福氏を討ち取る.
 そして,美濃守護代家・斎藤妙純の仲介により,甲斐氏と和睦.

 文明7(1475)年,甲斐氏が守護代として遠江に下向すると,孝景は最後まで残っていた大野郡の犬山城と土橋城の攻略を開始.
 井野部・中野の合戦で二宮氏を討ち捕り,斯波義敏を京都に送り返して,越前一国の平定を成し遂げた.

 文明11(1479)年,尾張・越前・遠江守護である斯波義寛(斯波義敏の子)が,敏光を引き連れて越前奪還のために朝倉征伐を開始.
 豊原寺に侵攻し,二宮氏も平泉寺に入った.
 京から進発した義寛は越前北部の坂井郡の細呂宜・長崎・金津にて孝景と交戦.
 孝景は現場指揮を氏景に任せ,また,弟の慈視院光玖に大野郡を固めさせて,自身は第一線を退いた.
 この戦いは斯波義寛が優勢であったものの,他の越前各所で行われた戦いでは朝倉方優勢であって,一進一退.
 その対陣中の文明13(1481)年7月,孝景は病没した.享年54.

 孝景の東軍離脱は応仁の乱のターニング・ポイントと言われているが,子孫の朝倉義景も,勝手に信長包囲網から抜けて信玄を激怒させているあたり,
「もしかして性格も遺伝するのでは?」
と思わせる人物の一人である.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/朝倉孝景
https://www.ibis.jp.net/asakuraeirintakakage ※肖像画引用元
http://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/010_about/history.php

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