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2014年02月16日20:17

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■「日記を読む愉しみ」 (3)

●2014年02月16日 (日) 晴れ

 ▼ 『平生釟三郎日記』第6巻 附録 から

   日記を読む愉しみ
                 片野真佐子

   一

  関西に移り住んでそろそろ二十年になる。私は、東京の深川
  生れで生粋の下町つ子だ。 どうしても東に目が向いてしまう。
  そのせいだろうか。群馬県の安中教会牧師・柏木義円を研究して
  今にいたった。

  子育て時代を貫いて続いている柏木義円の文書解読は、最初、
  つれあいの勤務先の埼玉にある大学図書館のマイクローリーダー
  を借用して始めた。

  その史料をもとに私の最初の本ができ、学位論文が完成した。
  たしか、京都に向かう新幹線のなかで最後の校正をしたと思う。
  京都に居を構えた直後に完成とあいなった。

  そして、突然一本の電話が入つた。
  今は亡き飯沼二郎先生が、拙著を読んでくださって、柏木義円
  の日記の翻刻を提案されたのだ。

  柏木は非戦論者として知られるが、私は日本の近代化とキリス
  ト教思想の関係に注目している。柏木は、平生釟三郎より六歳
  年長で新潟県出身の浄土真宗武家待遇住持の生れである。

  拙著には多くの日記や書簡を用いた。
  先生は、そこに注目してくださったらしい。すぐに史料を分担し、
  週に一回の作業に入ることになった。それから、 先生のお宅に
  子連れでうかがっては、先生が翻刻された部分をチェツクすると
  いう濃密な時間を過ごした。

  まだ小学生の低学年だった次男や、ときにその友人を連れて、
  昼食をご一緒してから作業に入った。あいまには、ダイナミック
  な画風で知られる画家の奧様が、 「二郎ったらひとりでやって
  いるつもりになっちゃうんだから、 まったく」などと笑いながら
  加わられ、 作業場の飯沼先生の書斎はおしゃべりに花が咲いた。


  先生は、毎日毎日、朝から晩まで柏木の日記を起された。
  柏木の日記は先の割れた筆やちびた鉛筆書きの読みにくいもの
  だったが、先生の原稿の字もかわいらしく撚(よ)れていた。

  先生の二百字詰めの手書き原稿と、私のワープロ原稿を合わせると、
  分量が多すぎて、 なかなか活字にしてくれる出版社がなかった。

  やがて、私は現在の職に就いて、その職場の出版助成金をもらい、
  飯沼先生も私費を投入されて、二段組み、556ぺージの辞書の
  ような本ができあがった。
  すでに五年が経過していた。今もお世話になっている出版社だ。


  ふとしたことから、飯沼先生も私と同じ束京の下町、両国横
  網町出身だと知った。地震は、最初ゆるやかに襲ってきて、や
  がて激しくなり、今まで経験したことのない不気味な鳴動に変
  ったという。驚いた先生は一家でお隣の安田さんの家に避難し
  た。関東大震災だ。

  安田邸では緋毛氈を敷いて呑気に火事見物の最中だったそうだ。
  飯沼先生は、出されたお茶を飲みながら、あの川幅の広い隅田
  川の向こう岸から火の粉が飛んでくるのを見て気が気ではな
  かったと、とてもリアルに話された。

  そこで飯沼先生たちは安田邸から早々に脱出した。しかし、
  そのとき安田善次郎の息子善雄はのんびり構えていて家族と
  ともに焼死した。

  平生釟三郎は、これを知つて、「神ガコノ汚ガレ夕ル血縁ヲ断絶
  シテコノ世ヨリ如此キ貪欲漢ヲ掃ハントスルモノニアラザルカ」
  (『平生釟三郎日記』第五巻 419頁)と日記に記したという。


  知られるように、安田邸のすぐ南には旧陸軍被服廠跡地があ
  った。 そこには束京市が軍から払い下げられた約二万坪の空地
  があった。 だれもが恰好の避難場所と思ったのも無理はなない。

  近くの警察署では署長が陣頭指揮をして避難民をここに誘導し
  た。あらんかぎりの家財道具を持ち込んだひと、着の身着のま
  まで逃げ込んだひと、数万のひとびとがこの地に殺到した。

  そこに容赦なく火災旋風が襲いかかった。死者は一時間足らず
  のあいだに四万人近くを数えた。東京の震災による死者全体の
  ほぼ四割に当たるという。

  保険業界では地震免責条項を精査し、政府からの借入金をも
  って10パーセントの見舞金を出すと決めた。業界からすれば
  思い切った犠牲的精神の発動である。 保険業の経営と震災後の
  社会不安のはざまに立って、率先決断した平生の胆力が光る。

   (つづく)


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