サム・クックが若きボビー・ウーマックに、当時売り出し中の新人だったボブ・ディランを聴かせたときのこと。
さっぱり理解できないというウーマックに対し、クックはこう諭した。
「“良い声”の時代は終わったんだ。これからは真実を伝えていると思わせる説得力のある声が重要な時代になるだろう。」
僕はこの話が大好きだ。事実、クックの言うとおり、良い声で歌えるだけのシンガーはフランク・シナトラを最後に姿を消した。
ディランはウォッカを10杯飲んだ翌朝のような声で歌う。しわがれた老人のように頑固で、それでいて風来坊のように掴みどころがない。メロディやリズムを無視した独特な節回しで、吐き捨てるかのように乱暴に言葉をまくしたてる。
そのいわゆる“ヘタウマ・シンギング”のすべては、ディランから始まったと言っていい。そして未だに最高峰であり続けている。ディランの好きなところをひとつだけ挙げろと言われたら、僕なら迷わずその声だと答える。
本作『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』は、彼がプロテスト・フォークの貴公子として祭り上げられる切っ掛けとなった作品。アコースティック・ギターとブルースハープだけで奏でられるシンプルな弾き語り集となっている。
名曲“風に吹かれて”が収録されていることもあり、今ではディランの代表作として認知されているが、現代の耳で聴いた場合、あるいは純然たるポップ・ミュージック作品として聴いた場合、完成度はそれほど高くないと言わざるを得ないだろう。“戦争の親玉”や“第3次世界大戦を語るブルース”のようなトーキング・ブルース調のプロテスト・ソングに顕著だが、言葉の強さ、巧みさに、肝心の音楽が引っ張られてしまっている気がする。
もちろん天才詩人ディランを前にして、歌詞と音楽とを別にして語ること自体ナンセンスなのはわかっているつもりだけど、僕のような非英語圏のリスナーにとっては、いまいちその魅力が伝わりにくいというのが正直なところ。
なので僕にとっては、“北国の少女”や“
くよくよするなよ”みたいな、あくまでちゃんとしたメロディ展開を含むフォーク・ソングに惹きつけられる(もちろん詞の内容もヤバすぎる)。
ベスト盤ばっかり聴いていた10代のころはよくわからなかったことだけど、ディランはこれらの曲で意外なほどしっかりと「歌っている」ことにも気付かされる。サム・クックが言うところの前時代の名残もあるだろうが、ぶっきらぼうに見えるディランもまた、歌心に溢れたボーカリストだったことが分かる。
そう、たしかに「真実を伝えている」という説得力がその歌声から感じられるのだ。
その素晴らしく頑固な声を失わない限り、僕は未来永劫もディランを聴き続けるだろう。
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