El Lissitzky(エル・リシツキー)は小さい頃から絵が好きで画家を目指すがペトログラードの芸術大学の受験でおそらくユダヤ人であることで入学を拒否される。そのことが彼の人生に大きな影響を与える。1909年にドイツに留学しダルムシュタット工科大学で建築を学び卒業後ロシアに戻り建築家のアシスタントとして仕事を始める。1917年にロシア革命が起こりユダヤ人にも平等の労働権利を得ることができそのことでリシツキーは西側に亡命せずロシアに止まることとなる。演説者のための演壇のデザインや革命をモチーフにしたポスターなどを残す。1922年にベルリンで行われたロシア芸術展でリシツキーら構成主義のメンバーは西側諸国(ドイツ)にセンセーショナルを起こしロシアの代表として再びドイツを訪れることとなる。西側のアヴァンギャルドの連中と交流を深めたり勢力的に機関誌を発行し独創的な装丁やブックデザインを残す。また23年にマヤコフスキーの「声のために」のブックデザインで世界的な評価を得る。22-23年に数多くの代表作を残すこととなるが1923年末に肺結核を発病し死ぬまでこの病気と戦うこととなる。レーニンの死後、スターリン体制になってからは芸術活動に制限が加えられ結果的にロシアアヴァンギャルドは終焉を迎える。療養中の間も病気と戦いながら作品を発表しペリカンインク社の広告、フォトモンタージュ、USSRなどのデザインなど勢力的に作品を残す。