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雨森芳洲

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詳細 2020年4月16日 22:57更新

・1668年
  近江国伊香郡雨森(現 滋賀県伊香郡高月町雨森)に生。
・1684年
  江戸に出て、木下順庵の門に入る。
・1689年
  順庵の推挙により、対馬藩に仕え始める。
・1691年
  この頃から、中国語を学び始める。
・1703年〜’05年
  釜山に渡り、朝鮮の地理、歴史、朝鮮語を学ぶ。この間、日朝会話集『交隣須知』を著す。
         
・1711年                     第8次朝鮮通信使に同行。
・1719年
  第9次朝鮮通信使に同行
・1728年
  朝鮮語の入門書『全一道人』を著す。また、朝鮮通信使に同行した経験をもとに『交隣提醒』を著す。
・1755年
  対馬で没(88歳)。対馬巌原の長寿院に葬。



雨森芳洲は、江戸時代の朱子学者である。対馬藩に仕え、対朝鮮外交に携わった。彼は江戸時代、日本人の渡航が厳しく制限されていた時代に、唯一の常設在外公館であった東莱(釜山)の倭館に滞在し、朝鮮の地理、歴史、朝鮮語を学んだ経験を持つ。その語学力をもって、彼の地の人々と親しく交わった。そして対馬にあって朝鮮の使節と応接する際には、筆談ではなく、直接朝鮮語でやりとりしていた。さらに芳洲は、中国語も不自由なく話すことができた。まさに当代随一の国際人だったのである。そうした経歴から、第8次、第9次の朝鮮通信使来日の際には、真文役(通訳兼接待役)として通信使に同行するなど、使節接待の中心的役割を果たし、日朝親善に尽力した。
外交担当者として卓抜な手腕を発揮した芳洲であったが、業績はそれ以外にも多方面に亘る。まず、語学者、教育者としての業績である。日本で朝鮮語は、それまで実務の経験を通じてのみ学ばれるだけであった。しかし、芳洲は通詞(通訳)が単に言葉の技術者に終わることなく、相手国の事情、慣例に通じることが肝要と唱えた。そしてそのような考えから、対馬に朝鮮語通詞の養成学校を設立した。また、彼が編んだ『交隣須知』は、わが国初の朝鮮語教科書であるが、これは幾度もの改訂を経て、明治時代に至るまで使用され続けた。さらに、芳洲は朝鮮の日本語辞典である『倭語類解』の作成にも関わるなど、日朝両国の語学に多大な貢献をした。
芳洲はまた、思想家として重要な仕事を行っている。彼は中朝語学の経験から相対主義的な世界観をもち、民族・宗教・言語といった、国と国を分かつとされるものに絶対的な価値を付与しなかった。即ち、一切の偏見を排した、普遍的な人間性という尺度で各民族の価値を評定しようとしたのである。彼の著した『交隣提醒』は、彼自身の国際関係思想をまとめたもので、江戸期の数少ない外交思想の代表として特級の価値がある。その書の中で、芳洲は、「とにかく朝鮮の事をくはしく知り申さず候ては、事に臨み何の了簡つかまつる様これなく、浮言新説いかほどあり候ても、益これなく候」(どんなに善意をもって外交にあたっても、朝鮮に関する詳しい知識が無ければ、その理想主義は実効の無いうわついた言葉、「浮言新説」に終わる)と述べている。さらに、「互いに不欺不争真実を以交り候を誠信とは申し候」(互いに欺かず、争わず、真実の心で交わりますことを、誠信とは申すのでございます)と説いた。現在の日韓関係にこれほど重大な示唆を与える文言はない。銘心すべき一節であるといえるだろう。
芳洲の名は彼の生前は、儒学者、語学者としてよく知られていたようであるが、国学が台頭し、さらにその国学が、西洋ナショナリズムと折衷されていく過程の中で忘れ去られていった。しかし、近年では、上に述べたような芳洲の事績に対する再評価が盛んに行われている。


( 上垣外 憲一『雨森芳洲 –元禄・享保の国際人–』講談社、二〇〇五年 参照)




このコミュニティは、先生の業績、遺徳を称えつつ、韓国のことについて、韓国の人との交わりについて語るコミュニティです。

滋賀の「雨森芳洲庵」に行ったよという人がいたら、絶対コメントしてくださいー。

つーか、コミュニティ参加人数が10人超えてる!!
信じられん・・・。
ありがとうございます!!!
おっしゃもっと増やそーー

んじゃねん。


目指せ、

50人超え。

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開設日
2006年6月1日

6532日間運営

カテゴリ
学問、研究
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