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織田 信長

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詳細 2022年11月6日 10:51更新

☆管理人よりお知らせ☆
皆様本トピックにご参加いただきありがとうございます。
本当にありがたいことに参加者も1300人を超え大所帯となりつつありますので、この辺で一度、近日中にトピックの整理整頓を行います。
今後は、見やすく、使いやすく、するために同趣旨内容のトピックの立ち上げはご遠慮くださいますようよろしくおねがいいたします。





1534年(天文3年 )
  織田家嫡男、信長 (幼名吉法師)が、尾張の国那古野において織田信秀の子として生まれる。生母は、土田御前、乳母は、養徳院である。養育係には、私の好きな平手中務政秀がいる。

1535年(天文4年)
  細川晴元の軍勢と本願寺の勢力とが、このころ盛んに争う。

1537年(天文6年) 
  幼年のころ小猿と呼ばれた、豊臣秀吉(幼名日吉丸、木下藤吉郎)が尾張の国愛知郡中中村に生まれる。父は、木下弥右衛門、母は、御器所村の娘(後の大政所)である。

1541年(天文10年)
  ポルトガル船が、豊後国に漂着する。

1543年(天文12年)
  鉄砲伝来。歴史の教科書にでてくる 「種子島」である。(これより33年前の永正7年に、中国から銅銃が渡来したとの説がある。)
 少し余談になるが、この鉄砲を戦場において「組織的」に活用したのが 織田信長だ。信長の戦で際立って対照的に見えるのが、例の「桶狭間」と「長篠の合戦」で、前者は、「奇襲」 それも偶然にもたらされた 「天候」による勝利であり、 後者は、「馬防柵」と「鉄砲隊」という有機的に結びついた組織力にもとづく勝利である。もちろん、その時々の富国強兵の度合いが異なることも大きな原因であっただろうが、 やはり、 鉄砲の持つ戦略性に早くから着眼した信長の天下人としての才能が、「桶狭間」以後の信長自身を変えたと考えるのが自然だろう。
 この天文12年は、鉄砲が伝来したということで歴史的重要性をもつが、それだけでなく、 ヨ−ロッパ人が初めて日本に来たということでも重要なことである。いずれにしても、鉄砲の伝来が日本の歴史を大きく変革させたと言っても過言ではない。鉄砲は、この後全国に普及していくことになる。

1544年(天文13年) 
 キリスト教徒、薩摩の国に来る。

1549年(天文18年)
  今川家軍師太原雪斎が、安祥城(現在の愛知県安城市安城町)にあつた織田信広を攻めて生け捕りにし、松平竹千代(徳川家康)との人質交換に成功。この年、フランシスコ・ザビエルにより、初めてキリスト教が日本に伝来する。

1553年(天文22年)
 織田家宿老平手中務政秀が、信長に諫言を聞き入れられず、自害する。(気の毒なことである。)

1556年(弘冶2年) 
  斎藤道三、美濃国長良川に討ち死にする。この前の年、織田信長は清州城に移っている。

1560年(永禄3年) 
 今川義元、(当時駿河、遠江、三河の三ヶ国を有する有力な大名で、足利義兼を祖先とする足利一門の豪族)が京に上洛するため5月12日に兵2万5千をもつて駿府を出発、翌13日に遠江の掛川に着陣。その後、引馬、吉田、岡崎、知立を通り、18日に沓掛に本陣を設置した。19日今川勢は一斉攻撃に入るが、義元本隊は、沓掛を出て大高城(松平元康在陣、兵2千5百 )へ進軍、途中桶狭間(田楽狭間)付近で休息。
  その間隙をぬって信長は、2千足らずの軍勢で「奇襲」、今川冶部大輔義元の首級をあげる。1番槍は服部小平太忠次、首級を挙げたのは毛利新介良勝であったという。いわゆる 「桶狭間の戦」である。その後今川家は、家督を氏真が継いだが次第に衰退することになる。 
  この年、三好長慶が、河内の国高屋城を攻め、紀州根来寺宗徒と戦いこれを打ち破る。

1561年(永禄4年) 
  越後の国守護代長尾景虎が、関東管領上杉憲政の要請をうけ、関東管領職を譲り受け上杉家を継ぐ。上杉政虎(謙信)と改める。また、この年、甲斐の国武田晴信(信玄)と信濃の国川中島において合戦するが、弟武田信繁を戦死させる。( 川中島の合戦 )

1562年(永禄5年) 
 織田信長、水野信元の仲介で松平元康と和睦し、「清州に会盟」する。

1563年(永禄6年)
  三河一向一揆がおこる。松平家部将多数参加したとされる。

1564年(永禄7年) 
  同一揆を鎮圧する。徳川家康の技量が問われた場面だ。なお、この年、大阪に大火があり、石山本願寺など類焼する。織田信長は、近江の国浅井長政と通じ、信長の妹のお市の方を娶らせ、美濃の侵攻や越前朝倉の防備の備えとした。

1565年(永禄8年)
  足利将軍義輝が松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)のために殺される。三好三人衆はその後袂を分かち対立する。実行犯は、久秀の子義久であると。下克上の世の末である。なお、三好三人衆のうちの三好政康は、真田十勇士のひとり三好清海入道であると聞いたことがある。もちろん、架空である。
 (注)戦国の奸雄、松永久秀の三つの大罪。その一、足利将軍義輝をシイギャクしたこと。その二、主家の三好一族を調落殺害したこと。その三、南都の大仏殿(東大寺)を焼き討ちしたこと。 

1567年(永禄10年) 
  織田信長が美濃の国稲葉山城(斎藤竜興)を攻め滅ぼし、( 稲葉山城の戦い ) この城(後の岐阜城)に移る(天下布武の第一歩といったところ。)。このころ、松永久秀が東大寺に篭る三好三人衆を攻め打ち破る。

1568年(永禄11年)
  織田信長は、上洛の備えとして北伊勢に侵入。神戸家、長野家を降し、神戸家には第三子の信孝(神戸信孝)、長野家には弟の信包をそれぞれ養子にして、北伊勢を制した。次いで、上洛のため岐阜を出発兵力およそ6万。進路上にある六角家の観音寺城に入城(六角承禎、義治親子はすでに逃亡)し、将軍足利義昭を招聘する。後、将軍義昭と共に入京する。京に入ると信長は、三好三人衆を京から駆逐し、松永久秀の入質を認める。
  この年、信長は、関所を廃止する。また、堺、本願寺等に家銭を課する。

1569年(永禄12年)
  京を追われた三好三人衆が三好康長の軍勢と共に反撃するが、明智光秀らによって撃退される。 この時、堺衆、本願寺(法主は、第十一代法主本願寺顕如) 門徒は三好方を支援したという。本願寺門徒 (本願寺に帰依した人々のこと) のなかには、雑賀、根来衆もいた。 ( 雑賀、根来衆は信長方に味方したとの説が現在の有力な通説となっている。また、織田、三好の両陣営に味方していたとの説もある。 このことが雑賀衆が「傭兵」としての性格を持つ、といわれる所以である。)
  この年の末ちかく、信長は、南伊勢の北畠家を攻め、二男信雄(北畠信雄)を養子にすることを条件に講和する。

1570年(元亀元年)
  「石山合戦」のときがきた。 元亀元年の春、足利将軍義昭の勝手な行動を阻止するため、信長は、五ヶ条の条書を 義昭に送りつける。 そして、信長自身上洛し、将軍義昭に礼をするとともに禁裏に参内する。
  この時、徳川家康 (永禄9年に徳川姓を名乗ることを禁裏より許可される。) をはじめとする近隣諸国に書状を送り、上洛することを命じたが、越前の朝倉義景はこの召し出しに応じなかった。4月19日信長は、禁裏に参内し「勅命」を得 (朝倉攻めに対するものではないが。) いわゆる「官軍」となって翌20日、家康とともに出陣。しかし、信長の妹お市の方が嫁していた近江の浅井長政の叛意の報がもたらされるに及んで28日に陣払いし帰京、 翌5月9日に岐阜に退陣する。
  もとよりこれで納まる筈がない。6月28日織田・徳川連合軍が近江に出陣し、浅井・朝倉連合軍を近江の姉川において これを打ち破る。( 姉川の戦い ) 

  7月21日、例の、京を追われた三好三人衆と三好康長が管領家嫡流の細川六郎を盟主として摂津の国野田・福島に出陣。これを機に、石山本願寺の法主顕如が三好軍と通じ、各国の門徒に対し激をとばし、挙兵させ、9月12日に同門徒が信長の陣を攻撃する。「石山の合戦」のはじまりである。 翌13日、14日の両日、本願寺勢は信長を激しく攻撃。本願寺方は鉄砲3000挺で信長を激しく攻めたという。この戦いは、信長にとって最も苦渋に満ちたものとなった。( 野田・福島の戦い )

 ただし、一部の雑賀衆、根来衆は、信長方についたとの説がある。まったく複雑にして怪奇であるが、この時代をよく表している。この機に乗じて、越前朝倉、近江浅井の両軍が本願寺と連携をとりつつ、近江の坂本に出陣。この地を守備していた織田の部将森可成を宇佐山城に攻めて討ち死にさせ ( 坂本・宇佐山の戦い) 、21日には山科、醍醐まで進出。この報を22日に知った信長は、23日 三好衆、本願寺との戦いを切り上げて帰京する。 9月24日、信長は、浅井朝倉両軍との戦いに挑むが、浅井朝倉の両軍は決戦を避け比叡山に陣を張る。この結果、戦線は膠着し、将軍義昭の上意と天皇の綸旨が出されるに及んで12月14日に両軍は和睦するに至る。(志賀の陣)

 信長がこの和睦を望み受け入れたのは、11月21日に 伊勢長島の一向一揆が、信長の弟 織田信興の居城小木城を攻め、信興が自殺し落城する事件あったからであるという。

1571年(元亀2年)
 この年、信長は、浅井朝倉や三好討伐も重要であったが、本願寺勢力 とりわけ伊勢長島の一向一揆をなんとしても攻略しなければならなかった。この前年に弟信興が殺されていることもあって、5月12日 信長みずから出陣しその軍勢5万という。しかし、この結果は信長の大敗に終わる。柴田勝家は負傷、美濃三人衆と呼ばれた氏家ト全が殿軍として戦い討ち死にという散々な結果となり、16日に兵をまとめて岐阜に逃げ帰る。( 第1回長島攻め ) 

 なお、 美濃三人衆とは、安藤守就、稲葉一鉄、氏家ト全 をいう。いずれも、旧斎藤家の家臣である。8月18日、体制を立て直した信長は、近江浅井長政の居城小谷城を攻め、9月12日に坂本に進軍しこれを攻撃。そして、歴史に名高い、また、多くの議論推論を巻き起こした延暦寺の焼き討ちを行った。この焼き討ちで、延暦寺の根本中堂、大講堂や里坊など余すことなくことごとく灰燼に帰した。その業火は京からも見られたという。(延暦寺の焼き討ち)

1572年(元亀3年)
 将軍義昭の懇請もあって、10月3日甲斐の国武田信玄が甲府を出陣。その軍勢2万5千、石山本願寺や浅井朝倉などの応援を受け遠江に入り、二俣城を抜き、家康の居城である浜松城に進出。12月22日三方ヶ原において戦うが、家康の大敗に終わる。 (三方ヶ原の戦い。)

1573年(天正元年) 
  将軍義昭と信長は、挙兵、和睦をくりかえしたが、信長が二条城をかこみ威圧、7月18日槙島城に逃れた義昭は、信長と再度和睦し京から追放される。ここについに、室町幕府は滅亡することになる。(室町幕府の滅亡)

 ついで、8月20日越前朝倉義景を攻撃し、義景は賢松寺に自殺。さらに、返す刀で近江の浅井長政を攻め、ついに8月28日長政は小谷城において自殺。 ここに信長は、長年の宿敵浅井朝倉を滅ぼす。( 一乗谷の戦い ) なお、信玄は、4月12日に病死している。 

 9月24日信長は、再度伊勢長島に出陣。一向宗徒の篭る門徒末寺を攻め滅ぼす。( 第2回長島攻め )11月入京し妙覚寺に宿。

1574年(天正2年)
  正月、越前に一向一揆が起き本願寺の支配下( 加賀の国と同じく「百姓の天下」? ) に、これにより越前朝倉氏滅亡する。秀吉これに応じ出陣。3月28日 信長は、3千もの人数で奈良に入り東大寺正倉院の名香「蘭奢待」を切り取る( 威勢を誇示? )。 4月2日、本願寺顕如再び石山本願寺に挙兵し、信長に対抗する。三好康長らがこれに応じ河内の高屋城に挙兵したため、信長は陣を張る。 一時岐阜に戻った信長は、7月13日伊勢長島の一向一揆討伐のため再び出陣し、各拠点を制覇しつつ願証寺に迫る。7万の大軍という。9月29日、ついに一揆勢が和を願い降伏する。 2万人の焼死者が出たという。( 第3回長島攻め )九鬼嘉隆の水軍が活躍する。

1575年(天正3年)
  4月21日、武田勝頼が徳川家康の家中大須賀弥四郎の内通により出陣し、三河の国長篠城を攻める。家康家中の鳥居勝商(忠実な武将としてその武勇伝は、有名 ) の救援要請により、岡崎にいた信長はこれを応諾。翌5月21日、信長、家康は長篠城を攻めこれを打ち破る。( 長篠の戦い ) この戦いで、信玄以来の武将馬場信房、山県昌景らが戦死する。鉄砲の威力を存分に発揮した戦いであった。(注)武田勝頼:推考を参照して下さい。

 このとき信長は、よくいわれる「三段式装填法」を用いたが、 ただ、「馬防柵」と「三段式装填法による鉄砲」 の組み合わせは、信長の戦上手、天才振りをよくあらわしていると思う。なお、この時の信長の鉄砲衆は、近江の国友村( 元浅井家の領国 )の「国友鉄砲衆」と考えられている。鉄砲隊長は、佐々成政である。8月信長は、越前、加賀の一揆を平定する。3万とも4万ともいわれる一揆勢が誅されたという。10月21日、 本願寺顕如は信長に和睦を申し入れ、信長はこれを認める。11月4日、信長は、大納言・右大将の位を受ける。

1576年(天正4年)
 2月23日、丹羽長秀の造営によるあの有名な近江の国 「安土城」 の本丸が完成し、信長は同日ここに移る。この城は、「天下布武」の印とあわせて、信長の「天下統一」の強い意思が感じられる。

 4月14日、本願寺顕如が、足利義昭、毛利輝元らと語らい再度、摂津の国石山本願寺に兵をあげ信長に対抗。明智光秀、荒木村重らがこれを攻撃する。

 同29日信長自身出兵し、5月7日摂津の国四天王寺付近にて激戦となるがこれを破り石山本願寺に肉薄する。この時の雑賀衆の激しい攻撃で信長は、足を負傷したという。真偽のほどは定かではないが、当然起こりうる可能性は大である。 しかし、戦線は次第に膠着状態。

 7月13日、毛利輝元の命により、部将児玉就英( 「川の内衆」、毛利直属の水軍を言う )が、村上武吉( 村上水軍 ) その他能島水軍、来島水軍らの来援を得て石山本願寺に兵糧を運びこむため、摂津木津川口に来襲。雑賀水軍の協力得て、信長の九鬼嘉隆を主力とする水軍( 安宅信康? )と戦闘、これを撃破し、兵糧を運び込むことに成功する。( 第1次木津川口海戦 ) 

1577年(天正5年)
 2月13日、信長は、紀伊の畠山貞政が雑賀衆、根来衆と呼応して挙兵したことを契機に、容易に落城しない石山本願寺の外堀を埋めるべく、嫡男信忠( 幼名奇妙、生母は生駒の方 ) と共に、紀州雑賀に出陣する。この前の年に内部分裂していた 雑賀衆のうち、雑賀三組( 中郷、社家郷、南郷 )と紀州根来寺の杉の坊の手引きで進軍。雑賀衆の牙城中野城を2月28日に攻め落とす。

 3月15日、 鈴木孫一 ら雑賀衆は信長に誓紙を入れ降参する。信忠を守将として中野城を守らせ周囲を征討するが完全に平定できず、出陣した兵が15万とも伝えられるが、雑賀は容易に平定できない。雑賀衆の粘り強さといえばそのとおりだが、それだけではないような気がする。 3月21日信長は、安土に帰る。( 安土に楽座を設ける )

 10月10日、例の、松永久秀親子( まだ生きていた )が、織田信忠の攻撃を信貴山城に受け自殺する。10月23日、羽柴秀吉中国攻めのため京を出陣する。

1578年(天正6年 )
  この年の正月、織田信長は摂津の国石山本願寺攻めを布告。3月15日全軍出動の命下る。 4月4日織田信忠、石山本願寺を攻撃。雑賀衆をはじめとする本願寺方はこれを防ぐが、形勢は次第に不利となる。

 11月荒木村重が信長に謀反する。

 九鬼嘉隆は、先の木津川口海戦で大敗を喫した信長の命により鉄張船( 我が国初の鉄甲船 )を建造したが、これが完成し、6月26日雑賀水軍と交戦してこれを破る。11月6日、毛利の援軍と木津川口にて再び交戦、九鬼水軍の鉄甲船6隻とも7隻ともいわれる艦隊が、毛利の西国船600隻余りと戦闘するが九鬼水軍の大勝に終わる。(第2次木津川口海戦 ) これにより、石山本願寺は毛利の支援の望みを絶たれる。 この年、上杉謙信、山中鹿之介没。

1579年(天正7年)
 5月11日安土城天守閣完成し織田信長これに移る。9月2日荒木村重が尼崎に逃亡する。 この年、信長は、キリスト教宣教師オルガンチノに、安土においてキリスト教寺院建立を認める。軍師竹中半兵衛没。

1580年(天正8年)
 1月17日播磨の国三木城が羽柴秀吉により落城す。城主別所長治自害する。 3月5日、権中納言勧修寺晴豊らが、勅命による本願寺と織田信長との和睦の交渉に奔走し、本願寺顕如が石山本願寺を退城することを約定して和睦が成る。( 石山合戦の終結 )

 4月9日本願寺顕如は、長男である本願寺教如に石山本願寺を譲り紀州の鷺森に退去する。 しかし、本願寺教如は、雑賀門徒をはじめとする諸国の本願寺門徒の強い懇請もあり、 石山本願寺に籠城して信長に抵抗する。

 父本願寺顕如は、再三にわたり教如を説諭するが、聞き入れられず息子の違勅に胸をいためるが、教如もひとり自分自身の問題として片付けるわけにもいかず、決意を固くして頑強に抵抗するので、ついに、教如の弟である本願寺准如を嗣としてこれを立てた。

 本願寺は、これを境に、東西に分離していくのである。のちの豊臣秀吉から 父本願寺顕如が、京都七条坊門堀川の地を寄進されてできたのが、現在の「西本願寺」であり、徳川家康から長男本願寺教如が烏丸六条の地を寄進されてできたのが、現在の「東本願寺」である。 8月2日、新門跡( 一門の祖の法流を継ぐもの、寺院の長官などをいう )本願寺教如が大阪石山本願寺を退去し雑賀に移る。

 11月17日、織田家部将柴田勝家が加賀の国の一向一揆を鎮圧。ここに織田信長の最大の敵であった一向一揆が事実上消滅する。( 「百姓の天下」の夢もここで消滅 )

1581年(天正9年)
 2月28日、織田信長は明智光秀に命じ、京都において御馬揃を行い、正親町天皇をはじめ、摂家、公卿等々が観覧する。8月30日、織田信長は高野山を攻め、高野聖千人余りを処刑する。10月25日羽柴秀吉、吉川経家の鳥取城を攻め落とす。

1582年(天正10年)
 織田信長に戦勝の祝辞を述べに来賀した徳川家康、穴山信君( 旧武田家の家臣 )らを接待饗応した明智光秀は、備中( 中国地方 )出陣のため近江坂本に入り、ついで丹波の亀山城に入った。

 5月29日織田信長は、信忠、森蘭丸ら数名の近臣を引き連れて京都本能寺にに入る。( 信忠は妙覚寺に入る ) 6月1日、明智光秀は兵1万3千を引きつれ亀山城を出陣。兵は亀山城から京都に向け老ノ坂を通り沓掛に至り小休止。ついで、嵐山の麓を流れる桂川に出、合戦準備を行い、本能寺に突入。 織田信長の軍は、150人程の人数であった。信長は自害。信忠も二条城で自害して果てた。6月2日のことである。( 本能寺の変 )

−完−






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