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背中に「愛」 兼続

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詳細 2013年7月16日 23:35更新

戦国無双2でおなじみの直江兼続を応援するコミュニティです♪

背中に「愛」の文字にはマジでシビレます(笑)

兼続好き集まれ〜!!

直江 兼続(なおえ かねつぐ、永禄3年(1560年) - 元和5年12月19日(1620年1月23日))は戦国時代・安土桃山時代・江戸時代の武将。上杉氏の家老。

経歴
父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曽義仲の重臣樋口兼光の末裔という)、母は信州泉氏の娘と伝える。仙洞院(謙信の実姉)の推薦で幼い頃から上杉景勝に近侍していたといわれるが、当時の様子が窺える良質な史料はなく、父兼豊の身分についても見解が分かれている。「藩翰譜」によれば兼豊は薪炭吏だったという。

景勝の命で直江家を継ぐ
兼続は天正8年(1580年)8月ごろから景勝への取次ぎ役など側近としての活動が確認できる。同8月15日には景勝印判状の奏者をつとめている。天正9年(1581年)に景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害されるという事件が起きると、景勝の命で直江信綱の娘お船の方の婿として結婚し、跡とりのない直江家を継ぐ。以後、兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。

秀治は天正12年(1584年)末ころには病にかかっていたらしく、この頃から兼続は内政外交の取次ぎのほとんどを担うようになる。秀治死後は兼続の単独執政になりこれは兼続死去まで続くことになる。兼続は前田慶次など牢人衆とも仲が良く、のちに関ヶ原の戦いで牢人衆が参戦した。1583年、山城守従五位下に叙任。その後も1587年の新発田重家討伐や1589年の佐渡征伐で功を挙げる。豊臣秀吉に従った上杉家が会津に移封されると米沢30万石を与えられたと言われるが、6万石という説もある。また、陪臣ながら上杉家の屋敷とは別に屋敷を与えられている(これは徳川政権下に入っても変わらなかった)。

徳川家康との対立
秀吉の死後、天下人として台頭する徳川家康と対立する。そして徳川家との融和を主張した藤田信吉との対立は、やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津の役を引き起こした。このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させる直接のきっかけとなった直江状の筆者として有名であるが、文面自体は後世の偽作であるともいわれている(上杉側からの返書を見て、家康が激怒したこと自体は確かなようである)。一説に関ケ原の戦いは兼続と石田三成との共謀説があるが、それを証明できる史料は乏しく偽書の疑いがあるものもあり現在では疑問視する声が多い。

関ヶ原の戦いでは東軍に付いた最上義光の領地である山形に2万5000人の精鋭を率いて侵攻し、義光の家臣江口道連の守る畑谷城などを激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく義光の家臣で、志村光安が守る長谷堂城と里見民部が守る上山城を攻めるが、守備側の健闘によって上杉方の武将上泉主水が戦死するなど長谷堂城の攻略に手間取った。

その頃、遠い美濃では関ヶ原の本戦が行われていた。本戦で西軍が敗れた事が奥州に伝わると、勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが、前田利益(慶次)ら上杉勢の諸将の奮戦もあって被害を最小限にとどめることに成功した。この撤退戦で兼続は敵である義光、家康にも称賛された。


関ヶ原の合戦以後
翌年、景勝とともに家康に謝罪し、かろうじて米沢30万石の減移封で上杉家の存続は許された。その後は徳川家に忠誠を誓い、大坂の陣にも参戦。慶長13年(1608年)1月4日に重光に改名。米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築いた。

南化和尚、西笑承兌などと親交があり文化人としても知られており蔵書家で有名であった。兼続蔵書である宋版「史記」「漢書」「後漢書」は南化和尚から贈られた物でありいずれも国宝に指定されている。また日本初の銅活字といわれる「文選」(直江版)の出版や米沢藩の学問所である禅林寺を創立している。

本多正信とも交流があり慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。また、正信の息子である本多政重が一時兼続の養子となっていた時期がある。政重とは養子縁組が解消されても親交が続いている。

1619年、江戸鱗屋敷で病死した。初め米沢市の徳昌寺に埋葬、その後米沢市の林泉寺に改葬された。法名は達三全智居士。後、英貔院殿達三全智居。

兼続の死後
兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶する事になったが、「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」、「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に、意図的に兼継が直江家を断絶させたとする説がある。

その後、景勝とお船の方が亡くなくなった事で後ろ盾を無くした兼続配下の与板衆が著しく凋落し始めたことや(与板衆は上杉家中で圧倒的な勢力を持っていたため反感を持つ反与板衆勢力も多かったといわれてる)、景勝と対立して出奔した上条政繁の息子である畠山義真などの反景勝、兼続の人物評が上杉家の軍記作成や歴史編纂に影響を持つようになると、 兼続を「東照宮(家康)様に逆らって上杉家を危機に陥れた不忠の奸臣」とする見方が現れて、米沢藩の記録にまで反映される事となった。だが、上杉鷹山が藩主になると、こうした一方的な記載を止めさせたと言われている。

1924年、従四位追贈。1938年、米沢市鎮座の松岬神社に配祀。以後、終戦まで米沢市祭として直江祭を毎年4月30日に執行する。

評価
一般には、主君である上杉景勝を上杉謙信死後から補佐し、豊臣秀吉からの引き抜き行為も幾度も断り、さらに関ヶ原の戦いでは敗戦にはなったものの少数の軍勢で伏兵を用いて何度も敵軍の侵攻を食い止め自軍の被害を最小限に済ませ、関ヶ原の戦い以降に家康の名で上杉景勝が没収された領土の代わりに自分の領土であった米沢30万石をほぼ全てを献上するなど、忠義の臣、智勇兼備の名将と言われている。

兼続は関ヶ原後、衰退する上杉氏を再建した政治手腕は賞賛されるべきである。しかし、関ヶ原の戦いで中央の戦況が早々に東軍勝利に終わってしまったという事情があるとはいえ、城攻めで少数の最上勢に苦戦するなど、軍事の手腕に関しては疑問が残るところがある。

逸話
「愛」という字を前立にあしらった兜をかぶっていた。「愛」は「愛染明王」又は「愛宕権現」からの由来といわれている。
あるとき、兼続の家臣が下人を無礼討ちした。すると、その下人の遺族たちが兼続に「あれの粗相は何も無礼討ちにされるほどのものではなかった」と訴え出た。兼続が調べてみると遺族の訴えの通りだったので、兼続は家臣に慰謝料を支払うように命じた。しかし遺族たちは下人を返せと言って譲らない。兼続は「死人は生き返らないのだから、慰謝料で納得してくれないか」と言ったが、遺族たちはあくまでも下人を返せと言い張る。すると兼続は「よしわかった。下人を返して取らそう。だが、あの世に遣いにやれる者がおらぬゆえ、すまぬがそのほうたちが行ってくれぬか?」と言って遺族3人の首をはね、その首を河原に晒して、その横に立て札を立て、そこに、「この者どもを使いに出すから死人を返せ云々」と閻魔大王への嘆願書を書いた。しかしこれはあくまでもエピソードの一つであり、事実かどうかは不明である。
景勝の代理として大阪城に上った際、伊達政宗が同席の諸大名に「めずらしいものを」と天正大判を回覧した際、素手ではなく扇子で受け、撥ねるようにして表裏を見たという。政宗は、直江が陪臣であるために遠慮していると思い「山城、手にとって見るも苦しゅうないぞ」といったところ、直江は「冗談召さるな。不肖兼続の右手は戦場にあっては先代謙信の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものを触れるわけには参りません」と、政宗の膝元へ投げて返したという。
後年、江戸城内で伊達政宗とすれ違った時、兼続は知らぬ顔で会釈をしなかった。政宗が「陪臣の身で大名に会釈せぬとは無礼ではないか」と咎めると「これはご無礼いたしました。これまで兼続は中納言様(政宗)とは戦場で相まみえる(対戦する)間柄だったゆえ(負けて逃げる)後姿しか拝見した事がなく、お顔を存じ上げませんでした」と慇懃に答えたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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