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島左近清興

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詳細 2016年12月30日 17:34更新

謎多き戦国武将・島左近清興に関するコミュニティです。

島清興(しま・きよおき)
天文九年(1540)五月五日?〜慶長五年(1600)九月十五日?

 安土桃山時代の武将。通称左近、諱は勝猛・清胤・友之・昌仲などとも記録に見える。大和平群谷(奈良県平群町)の出自とみられ、俗に筒井順慶の下で松蔵右近とともに「筒井の右近左近」と並び称されたという。平群谷や吐田などで一万五千石を領したと伝えられ、椿井城を本拠(詰め城)とし、平時は北西麓の平等寺館に住したと考えられる。

 父:豊前守清国(?) 母:不明
 妻:興福寺の医師・北庵法印の娘「ちゃちゃ」。ただし平群谷北部・上庄の乾殿の娘が左近に嫁いだという伝承もあり、北庵の娘は後妻である可能性がある。
 男子:信勝・友勝・清長・清資・勝氏・清正などが記録に見えるが、同一人物の重複も考えられる。
 女子:小野木重勝・松倉重政・寺井種定の室、柳生利厳の側室「珠」。

 筒井氏における左近の事績は不明だが、松永久秀滅亡後には平群谷に在地していたことは確かである。
 順慶の後嗣定次が伊賀へ移封されると、左近も同行し木興村に二千石を領した。しかし定次とは意見が合わず、天正十六年二月に筒井氏の下を去って南都興福寺持寶院に隠棲したという。近江高宮浪人説もあるが、ともに伝承の域を出ていない。

 文禄元年四月、左近夫妻は近江佐和山城へ姿を見せる。小田原役の際にも左近は石田三成に従っており、主従関係や居住地はさておき、遅くとも天正十八年までには石田三成との接点があったものと考えられる。三成の下では筆頭家老としての待遇を受け、特に軍事面において頼られる一方、松原内湖に通称「百間橋」を架けるなど領内整備にも功績を残した。
 俗に三成の所領四万石の内、一万五千石とも二万石とも言われる高禄で招かれたとする逸話が有名で、その大きな存在感は「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と、江戸期をも通じて謳われた。
 関ヶ原合戦の際には決戦前日に明石全登らと大垣城から出陣、杭瀬川(呂久川)で東軍の中村一栄・有馬豊氏勢を破り、一栄の家老・野一色頼母助義を討ち取った。しかし翌日の決戦で黒田長政隊の鉄砲隊長、菅正利・白石庄兵衛らの銃撃により負傷、西軍も総崩れとなり以後の消息は不明。戦死したとも西国・大和・京都・近江・東北などへ逃れたとも伝えられる。

 左近の墓と伝えられるものが京都立本寺教法院始め対馬島山・同海岸寺・奈良市の三笠霊苑・陸前高田市の浄土寺などにあり、供養墓が大阪市淀川区の木川墓地にある。
 法名は「妙法院殿前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀」(立本寺)。ただし、同寺の過去帳では左近の没日時を寛永九年(1632)六月二十六日とする。(by Masa)

管理人サイト「嶋ノ左近」
http://www.m-network.com/sengoku/sakon/

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