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鳥取城・久松公園

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詳細 2015年9月13日 21:29更新

【鳥取城の】兵糧攻め【渇え殺し】(1581年4〜10月)

ここでは、1581年に行われた、中国地方を支配する毛利軍と、天下布武を呼号し、西進する織田軍の戦いを言う。実際に戦場で采配を振るったのは、織田軍中国地方攻略担当の羽柴秀吉と、毛利縁者である吉川(きっかわ)一族から送られた吉川経家である。

秀吉は、因幡国内へ商人を送り込んで、兵糧となる米を高値で買収させた後、1581年6月に、二万余の大軍で鳥取城を包囲した。秀吉は、久松山の尾根の一つを削平し、陣をおいたが、この陣跡を後世太閤ヶ平(たいこうがなる)と呼ぶようになり、その尾根を本陣山と呼んでいる。 秀吉の計略のため、兵糧攻めが開始された時点で既に兵糧の備蓄は少なかった。城内には凡そ4千名の兵が立て篭もっていたが、餓死者が続出し、ある者は木の根・草・ネズミを、またある者は死んだ兵の遺体にかじりつくという、さながら地獄絵図のような状態であったという。

 鳥取城は4ヶ月にもわたる篭城に耐えたが、10月に至り城将吉川経家は降伏を決意し、秀吉に対し城兵助命と自らの切腹を申し出た…。

この戦いは、播州三木城の干殺し、備中高松城の水攻めと並び、「鳥取城の渇え(かつえ)殺し」と呼ばれ、秀吉の代表的な、かつ凄惨な戦いとして世に知られている

現在鳥取城の濠端には、吉川経家顕彰の銅像がたつ。
山上には天守台石垣をはじめ、多くの遺構があり、往時を偲ぶよすがとなっている。

【鳥取藩主】池田氏について【32万5千石】

 家紋は丸の中に揚羽蝶を描いたもので、「因州蝶」と呼ばれる。鳥取藩主池田家は、本来岡山池田の分家筋に当たる。しかし鳥取池田家の祖忠継・忠雄の生母は家康の娘である督姫であったことから、徳川将軍家の縁者として遇された。ために、親藩に準ずる家格を与えられ、外様大名の中では異例の発展を遂げた。

 国持大名十八家の一つであり、家門諸家以外で葵御紋使用を許された数少ない大名家のひとつである。将軍との謁見は八代藩主斉稷(なりとし)の頃から大廊下下の部屋とされた。越前・加賀松平、薩摩島津、加賀前田などとともに、将軍縁者として有力大名の一角に伍した。

 東京上野に残る鳥取池田家上屋敷の表門は、大名屋敷最高の格式を持ち、東大の赤門(加賀前田家上屋敷)と並び上野の黒門と称せられる。重要文化財に指定されている。 
 最後の12代藩主池田慶徳も、攘夷論者として積極的に国政に参与し、明治新政府では議定職を勤めている(1869年2月〜5月)。維新後は侯爵に列せられた。

 現在16代目にあたる池田百合子さんがご存命であるが、後継者なく、当代で鳥取池田家の終焉を決意しておられる。

≪鳥取藩主池田家≫
光仲−綱清−吉泰−宗泰−重寛−治道−斉邦−斉稷−斉訓−慶行−慶栄−慶徳


なお、国府町奥谷に、池田家墓所がある。亀趺円頭式の墓が立ち並ぶ。江戸期藩主の墓制を知る上で、貴重である。

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