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沖縄神社

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コミュ内全体

詳細 2016年3月30日 00:39更新

下記を御覧になられた上で、米軍侵攻以前の「首里城保存」は本来放置されていた宮殿を神社という形式でなされたことを理解下さる方、それは文化侵略ということではなく当時としては首里住民の崇敬を基礎として先駆的な文化保存であったという事実に関心を寄せて下さる方、そして現在国立施設として立派に復元はなされたものの戦前の御祭神は戻されておらず、本当の意味での首里住民の文化伝統としては継承されていない事実を理解下さる方、参観に訪れる沖縄県内外の方々が宮殿前で神式にお詣りする景色が日常ごく普通に行われている事実に思いを馳せて下さる方、何より現在の首里城の各種行事においてはあたかも中国文化が沖縄の伝統文化の全てであったかと錯覚させるが如き内容が憚り無く行われている事実に疑問を抱かれる方々。

そのような方々向けのコミュニティです。

戦前の施政を全て沖縄伝統文化の破壊などとしか捉えられない浅い認識の方、単に自分と違う側の意見を攻撃することに満足覚えているだけの方、常識的に丁寧な文章が書けない方、カルトや特定の趣味・嗜好を強調される方、参加お断り。


御祭神
舜天王 尚圓王 尚敬王 尚泰王 源爲朝

沖縄県那覇市にある。
首里城の東1Kmの弁ケ嶽に鎮座。
モノレール首里駅から500mの丘の上。

小さなコンクリートの祠があり、中に5つの石碑が並ぶ。

創立は大正14年と新しい。
沖縄王統の祖・舜天王を祀る神社。

創立時は首里城を境内とし、首里城正殿を拝殿としていたが、戦争で破壊された。

後、現在の弁ケ嶽小嶽に再建されたらしい。

祭神に関しては、『平成祭データ』には、
舜天王、舜天王の父・源爲朝、中興の祖・尚圓王などが記されていたが、
祠内部には、以下の五王の名があった。
舜天王・英祖王・察度王・尚思紹王・尚圓王。

舜天王は、1187年に即位した沖縄王統の祖で、三代続いた。
その後、英祖王が王位を継ぎ、四代続く。
後、察度王(二代)、尚思紹王(七代)、尚圓王(十九代)と王位が移動し、明治維新となる。

弁ケ嶽
□1956(昭和31)年12月16日
□沖縄県指定史跡

 首里城の東方約1Kmにあり、海抜は165.7mで、沖縄本島中南部では、最も高い峰の一つです。そのため、かつては航海の目標ともなりました。一般に「ビンヌウタキ」と呼ばれ、峰全体がご神体とされ、1945(昭和20)年の沖縄戦で、この地において激戦が展開されるまでは、琉球松などの大木が茂っていました。弁ケ嶽は参詣道をはさんで、東側の小高い杜になっている方が大嶽、西側の低い方が小嶽となっており、『琉球国由来記』(1713年)によれば、大嶽の神名は「玉ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサ」、小嶽は「天子」と記されています。王府時代、1・5・9月に国王が親ら訪れ、祭祀が行なわれました。また、沖縄戦で破壊消失した石門は、1519年に首里城歓会門前の園比屋武御嶽石門とともに築かれたといわれ、その構造や工法も似ていました。この石門は、1938(昭和13)年、国宝に指定されました。現在のコンクリートづくりの門は、1954(昭和29)年にハワイの「うるま一心会」からの寄付金を得て、首里鳥堀町民の奉仕によってつくられたものです。
また、かつては石門の前に、拝殿と呼ばれる建物がありました。


−案内板より−

観光名所になっている首里城は、沖縄神社として国宝に指定されていた。

http://www.genbu.net/cgi-bin/update.cgi?index=4&target=ryukyu/hatiman_title.htm


首里城の起源ははっきりしませんが、察度王統の時代に首都となったとも、第一尚氏王統の尚巴志が中山王武寧(察度の子)を滅ぼし、中山の拠点を浦添城から首里城へ移したともいわれます。その後大改修が行われ、第二尚氏王統二代の尚真王の頃には首里城がほぼ完成したといわれています。
 その後、七代尚寧王の代には薩摩の島津氏の侵攻を受け、島津氏に従属することを余儀なくされました。明治5年(1872)には日本領であることを明確にするため、明治政府によって琉球王国は琉球藩に、国王は藩王とされ、明治12年(1879)琉球藩は廃され沖縄県とされました。明治政府は軍隊・警察を動員し、国王尚泰に首里城の明け渡しを迫り、国王以下その臣下は城を出て、琉球王国は瓦解しました。
 首里城は幕末の弘化3年(1846)に改築されて以来、修理されることなく大正時代に至り、腐朽荒廃がひどいため廃棄されることとなりましたが、大正12年(1923)伊藤忠太博士の尽力により特別保護建造物に指定されて改築、以後沖縄神社の拝殿として使用されました。しかし太平洋戦争末期の沖縄戦でこの見事なグスクもほとんど壊滅し、昭和25年(1950)首里城跡地に琉球大学が創設されました。そして昭和47年(1972)の本土復帰後、琉球大学が移転した首里城跡地が国営公園区域とされ、順次復元修築が進み平成4年(1992)には一部開園しました。そして平成12年(2000)、首里城跡は沖縄県内8ヵ所の資産とともに世界遺産に登録されました。

http://www.asahi-net.or.jp/~bc7t-kbt/siro/dougai/shurijou.htm

首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営記に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。

史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。明治以後は軍営や学校などに使用されたが、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になり、取り壊し寸前であった。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年〜1933年)に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E


鎌倉芳太郎という人はあまり紹介されていません。この人は明治31年に香川県に生まれ、大正10年に教員として沖縄へ赴任します。そこで沖縄の文化や自然の美しさに魅せられ、様々な事物を記録します。彼の膨大な記録は、戦争でほとんどのものが消失した沖縄の文化の復元のための貴重な資料となっており、今年、沖縄県立芸術大学所蔵の『琉球芸術調査写真』が、国の重要文化財に指定されました。沖縄の染色技術を、「紅型」と命名したのもこの人の仕事です。
 彼は最初は研究者として「紅型」に関わり始めたのですが、自分でも作品を作り始め、更に技術は研ぎ澄まされていき、昭和48年に国の重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に指定されました。彼のすばらしいところは、「紅型」はあくまで沖縄の人たちのものであるというポリシーから、自分の制作する作品については「型絵染」として、文化財指定の名称もそれを使っています。こうしたところにも、彼の沖縄への愛着がうかがえる気がします。

http://blog.zaq.ne.jp/lafiesta/category/8


伊東 忠太 いとうちゅうた
(慶応3〜昭和29 1867〜1954)建築家・工学博士

慶応3年10月26日、医師伊東祐順の二男として、米沢市座頭町に生まれた。
 明治初年、陸軍の軍医制度が発足すると、父祐順は軍医を志願し、明治6年忠太ら家族と共に上京した。忠太は東京で小学校に入り、父が明治11年1月に、下総佐倉の歩兵第二連隊に転属になると、佐倉の鹿山小学校に転校し、更に鹿山中学校に進み、明治14年、叔父平田東助の友人内村良蔵が校長に就任していた東京外国語学校独逸語科に入り、五年生のとき同校が廃止になると、第一高等中学校(一高の前身)に編入した。
 伊東が郷土後進のため育英事業をおこす必要を痛感して、郷土の有志に諮り、米沢有為会の発足を見たのは、明治20年8月のことで、第一高等中学在学中のことである。
 明治22年、帝国大学工科大学造家学科に入学、同25年大学卒業後、更に、大学院に進み日本建築の研究に従事し、のちに博士論文となる「法隆寺建築論」を発表して、法隆寺研究の道を拓いた。
 明治26年東京美術学校講師を皮切りに、造神宮技師、内務技師を経て、東京帝国大学工科大学講師となり、同32年助教授、同34年工科博士の学位を授与された。
 明治35年、中国、ビルマ、印度、エジプト、トルコ、欧米を歴遊して、同38年帰国後、教授に就任した。この間、中国山西省大同において、仏教遺跡雲崗石窟を調査している。更に、中国、満州に出張、明治40年、42年、44年と中国や印度を調査する一方、内務省から嘱託されて、神社・仏閣の保存・修理改築の調査に当り、大正4年には、日光東照宮の調査を委嘱され、また、明治神宮造営局参与として、その工業課長に任じられ、明治神宮の造営に献身的な尽力をした。
 以後、大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員、同6年日本美術協会第三委員長、同7年明治工業史編纂委員、同8年議院建築局顧問、同10年世界平和記念東京博覧会顧問・審査員などを歴任し、大正11年には、明治神宮造営に関する功績により旭日中綬章を授与された。
 大正13年外務省の対中国文化事務局委員や東京市恩賜公園常設委員になるが、、この間沖縄に旅行し、建築物の調査を政府に具申し、これが契機となって数多くの文化財が国宝に指定された。同14年には営繕管理局顧問となり、又、帝国学士院会員に推され、同15年には史蹟名勝天然記念物保存協会評議員となるなど、伊東は、国家的な建造物に関する各種委員に推挙されている。
 大正天皇崩御についで、今上天皇が即位されると、御大礼記念国産振興東京博覧会が開催されるが、伊東はその議員をつとめ、又、帝室博物館や神宮外苑管理の評議員もつとめ、昭和3年、東京帝国大学を定年退官、同大学名誉教授となり、ついで早稲田大学に迎えられて、建築史を講義している。
 昭和4年国宝保存会会員となり、以後、同6年東京震災記念事業名誉会員、同8年重要美術品等調査委員会委員、東京市公園常設委員、日独文化事業評議員、同12年紀念二千六百年記念事業準備委員兼祝典評議委員会委員、同13年帝室博物館顧問、同14年法隆寺壁画委員会委員長、同15年には、京都の二条城保存会委員に就任した。
 昭和18年4月29日、湯川秀樹、徳富蘇峰らと共に文化勲章を授章した。
 伊東が建築設計の実務にあたり造営された神社仏閣はあまたあるが、その主なものは、伊勢両宮、平安神宮、明治神宮、靖国神社、上杉神社、築地西本願寺、不忍弁天門龍門、震災記念塔、豊国廟等である。
 昭和29年2月11日、米沢市は名誉市民条例を定め、27日伊東忠太博士を名誉市民に推薦した。が、郷土の土を踏むことなく、同年4月7日、88才で没した。墓は横浜の総持寺にある。
 忠太の祖父伊東昇迪は、シーボルトに師事した米沢の代表的な蘭方医であり、父祐順はポンペに師事して医業を継ぎ、明治初年陸軍の軍医となって、西南戦争や日清戦争に出役、また、謡曲を嗜み金剛流家元について斯道の蘊奥を極め、多くの門人を育てた。
 忠太の長兄伊東祐彦も医学に進み、明治34年医学博士しなり九州帝国大学医科大学の初代学長をつとめ、退官後同大学名誉教授。次兄の村井三雄蔵は山形県林業技師で、叔父の平田東助は、明治・大正の代表的官僚・政治家である。

続 米澤人國記<近・現代編> 米沢市史編集資料より

http://one-y.com/pc/human/ito.html


琉球の建築物若い目で検証/伊東忠太ノート基に
 戦前の首里城保存に尽力した日本建築史学の祖・伊東忠太(一八六七―一九五四年)が一九二四年に調査に訪れた際に書き記したフィールドノート=写真=が社団法人日本建築学会に寄贈されている。その整理にかかわった京都工芸繊維大学大学院の吉池文枝さん(25)がこのほど、同ノートにある建築物を回り、検証する調査を開始した。先人の貴重な資料に触れた吉池さんは「日本の建築を考える上で、中国との間にある沖縄は避けて通れないルーツ」と研究の動機を語っている。(内間健)
 遺族は、九七年に同学会に伊東の手書きのフィールドノート七十六冊を寄贈。そのうちの一冊「琉球」で、崇元寺や真玉橋、識名園など図解を含めて詳細に記録、戦火で変わる前の文化財の姿を伝えている。

 伊東はこれを基に四二年に「琉球」を出版、琉球建築を称賛した。また伊東は、鎌倉芳太郎(一八九八―一九八三年)らと戦前の首里城正殿の保存を訴え、取り壊しを食い止めたことでも知られている。

 吉池さんは同学会が募集した学生ボランティアに応募、三年間資料整理に携わり、その詳細な記録に時代を超えて共感。さらに当時の人々の生活ぶりにも触れた伊東の民俗学的視点にも興味持ち、研究テーマとした。

 今回は十四日の来県、二十八日まで滞在予定で、歴史研究家の野々村孝男さんとも交流を深めた。

 野々村さんはフィールドノートについて「沖縄にとって記念すべき第一級の資料」と喜び、吉池さんの調査に協力していく考えだ。

 同資料は東京都にある同学会図書館が保管、デジタルデータ化を進めているが、現在は研究や報道目的のみの閲覧となっている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200509261700_05.html


沖縄文化の遺宝 写真〔編〕

著者   鎌倉芳太郎/著
出版社名 岩波書店
発行年月 1982年10月
サイズ 402,8P 37c
価格 55,650円(税込)

沖縄文化の遺宝〔2分冊〕

著者   鎌倉 芳太郎
出版社名 岩波書店 (ISBN:4-00-008012-1)
発行年月 1982年10月
価格 56,700円(税込)

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2006年3月26日

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