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虎痴

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詳細 2014年7月1日 03:06更新

許チョ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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このページの項目名には一部の日本語環境で表示できない文字があるため、仮名・略字または代用文字を用いています。正しい表記は「許褚」です。
許褚(きょちょ、生没年不詳)は、中国、後漢末から三国時代の魏の武将。字は仲康。許定の弟、許儀の父、許綜の祖父。

容貌は雄々しく毅然として、武勇は当代随一であった。後漢末、黄巾賊一万人余りが砦壁を攻めたとき、彼は若者を数千ほど集め、みんなで砦を固めて敵を防いだ。しかし許褚の軍勢は少なかったため、彼らの疲労は極みに達した。食糧が乏しくなったので、賊と和睦を結び、牛と食糧を交換することになった。賊が牛を引き取りに来ると、牛はすぐさま逃げ帰ってしまった。そこで、許褚はその牛を捕まえ、片手で牛の尾を引っ張って、百歩余りも連れてきた。これを見た賊軍は驚き、牛を引き取らずに逃げて行ってしまった。この噂を聞いたものはみな彼を恐れるようになったという。

曹操が淮・汝の地方を支配すると、許褚は軍勢を挙げて曹操に帰服した。曹操は許褚の勇壮な雰囲気に「我が樊噲である。」と言った。その日のうちに許褚は都尉の官を受け、彼に従っていた侠客たちを含めてみな親衛隊となった。張繍征伐に従軍したときは先鋒となり、一万ばかりの首を挙げ、校尉に昇任した。

(三国志演義では曹操の軍が黄巾族の残党と戦っている時何儀という黄巾族の総大将が出て来て曹操に一騎打ちの勝負を挑んで来た所、曹操は可儀を捕らえて来いと命じ典韋が捕らえに行った。その時一人の農民がいきなり出て来て可儀を馬から突き落とし押さえつけ可儀を持ち上げ逃げようとした。その農民が許チョであった。典韋は許チョを追いかけ可儀をこちらに渡せと言ったが 許チョが拒否したため二人は一騎打ちをした。典韋と互角に戦い合ってる許チョを曹操は「あれほどの男を殺すのはおしい」と思い部下に罠を仕掛けてここに連れて来いと命じた。典韋が許チョと戦い合ってもう一息の所で引き上げの合図が聞こえ典韋は仕方なく引き上げた。許チョが「まだ勝負はついていない、逃げるのか」と言うと典韋を追いかけた。追いかける途中許チョは罠にかかりそこにいた曹操の部下達に木の棒などで殴られるという暴行をうけ、手を縄で縛られて曹操の所へ連れて行かれた。曹操は殴られて手を縄で縛られた許チョを見ると「誰がこんな扱いせよと言ったのだ!」と言いすぐに縄を解けと連れて来た部下達に命じた。曹操は許チョに申し訳ないと謝ると部下にならないかと言った。許チョは黄巾族も滅び曹操の配下に逆らって殺されても文句を言えぬ自分を部下にしてくれる事を喜んで引き受けたという。)

官渡の戦いに従軍したとき曹操の部下の徐他らが謀叛しようと企てていたが、許褚の勇猛さに恐れをなして事を起こすことができなかった。彼らは許褚が休みの日に行動を起こしたが、許褚は宿舎まで来たところで急に虫が騒ぎ、すぐに引き返した。徐他らはそうとは知らず曹操の帳に入り、許褚を見て大いに驚いた。それを見た許褚は徐他の謀反を悟り、すぐさま彼らを打ち殺した。このことに曹操はますます許褚を信愛し、出入りにも同行させて左右から離さないようになった。

潼関で韓遂・馬超と戦ったとき、曹操は黄河を渡る前に兵を先に渡し、許褚と親衛隊百人余りとともに南岸に留まって背後を遮断したが、馬超が兵一万人余りを率いて曹操軍に雨のように矢を降り注がせた。許褚は曹操を支えて船に乗せたが、兵も競って乗ろうとしたので船は重さのため沈没しそうになった。そこで許褚は船によじのぼろうとする者を斬り、左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から庇った。さらに船頭が流れ矢に当たって死ぬと許褚は右手で船を漕ぎ、ようやく渡ることができた。許褚がいなければ命がなかったと後に曹操は述懐している。

そののち曹操は韓遂・馬超らとただ一騎で馬上で語り合ったが、そのときに許褚だけを連れて行った。馬超は自分の武術の腕を頼りに曹操を殺そうとしていたが、以前から許褚の勇敢さを聞いており曹操に従者がその許褚ではないかと聞くと曹操は無言で後ろを指した。すると許褚は馬超をにらみつけた。そのため馬超は動けず、結局引き返した。その後馬超軍と戦ったとき、許褚は自ら首級を挙げ、武衛中郎将に転任した。

許褚は力が虎のようで、ただ痴(頭の回転が鈍い)であったので、「虎痴」と呼ばれていた。そこへ天下の称賛を浴びることになったため、虎痴が彼の本当の名前だと思われるようになったという。


曹操が亡くなると、許褚は号泣して血を吐いた。曹丕の代に万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)した。許褚に率いられて親衛隊になった者は従軍し、後に武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉は百人余りにのぼった。曹叡が即位すると、牟郷侯に進み、子の一人を関内侯とした。曹叡の代に許褚は亡くなり、壮侯と諡された。そして子の許儀が後を嗣いだ。

許褚の性格は慎み深く、誠実かつ重厚で無口であった。曹仁が荊州から戻ってきたとき、宮殿の外で彼に出会った。曹仁は中に座ってくつろいで語ろうと誘ったが、許褚は「王(曹操)はまもなく出てくる。」と言って、すぐ宮殿に引き返してしまったので、曹仁は怒った。それを聞いた者が許褚を責めて「曹仁は王族の重臣なのに、へりくだって君をお呼びになったのになぜ断ったのだ?」と言った。これに対し許褚はこう答えた。「彼は王族の重鎮といえども外の諸侯です。私のような内の臣下の端くれが部屋に入ってどんなことを話せましょうか?」これを聞いた曹操はひどく感心したという。

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