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徐庶

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詳細 2016年5月23日 14:31更新

徐庶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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徐庶(じょしょ)は、中国三国時代の武将。字を元直(げんちょく)。男性。元の名を福といい、単家(ぜんけ、権勢のない家柄)の出身と『魏略』にある。三国志演義では単を姓と勘違いしたのか、単福を名乗ったとされる。豫州穎川郡の出身。

撃剣の使い手で、義侠心に厚く友人の敵討ちを引き受けるが役人に捕らわれる。後日友人が助け出し、心に強く感ずるところがあったので、刀や鉾を捨て、学問に励むようになった。こうして出身地を同じくする石韜と親しく交際するようになった。後漢の中平年間(184年 - 189年)、戦乱が激しくなると、石韜と連れだって荊州に移住し、司馬徽の門下生となった。さらに、諸葛亮と特に親しくなった。

そのころ劉備は荊州・新野に駐屯していた。徐庶は劉備と会見し、劉備は彼を有能な人物だと思った。徐庶は諸葛亮を推薦し、劉備が徐庶に呼びに行かせようとすると、徐庶は「この人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れて行くことはできません」と言った。こうして、劉備は三顧の礼で諸葛亮を迎え入れることになった。つまり、この時期には徐庶と諸葛亮が揃って劉備に仕えていた事になる。

劉備が曹操に敗北し、徐庶の母が曹操軍の捕虜になると、動揺した徐庶は劉備に別れを告げ、曹操の元に赴いた。

曹操の配下として魏に仕えた彼は、なぜか彼に献策するようなことはしなかったという。一説では、劉備に重用されたことを義理立てしてのこととも言われている。

その後も魏に仕え、右中郎将・御史中丞にまで昇った。また、石韜は典農校尉にまでなった。のち、北伐を行った諸葛亮は二人の官職を聞き、二人の才能には不十分と思ったので、「魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか」と嘆いたという。

三国志演義など
劉備と出会って軍師として迎えられ、新野城の攻防戦では曹軍五千を二千の兵で迎撃し、見事に打ち破る。その後敵討ちと称して曹仁が二万五千の兵で南下するが、曹仁の八門金鎖の陣を見破り、完膚なきまでにたたき伏せた。

程┐虜による、徐庶の母親の筆跡を真似た偽手紙を受け取り、やむなく曹操に下ることとなるが、去り際に劉備に諸葛亮を推薦する。また、曹操のために献策はしないという誓いを立て、劉備の下を去った。母親はこれを見て徐庶をなじり、自殺してしまった(史実では曹操の捕虜になっただけなので、当然自殺はしていない)。

赤壁の戦いにも従軍したが、龐統が仕掛けた連環の計の真意に気づきながらもこれを見逃し、龐統の助言により涼州の馬騰に対する備えという名目で陣を離れ、被害を免れた。

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