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宇喜多秀家大好き

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詳細 2016年4月3日 21:43更新

宇喜多秀家(うきた ひでいえ、天正元年(1573年)〜明暦元年11月20日(1655年12月17日))は安土桃山時代の大名で、官位は中納言。父は備前国岡山城(岡山県岡山市)主の宇喜多直家、母はお福の方(円融院)。室は前田利家の娘で豪姫。幼名及び通称は八郎。子に宇喜多秀高・宇喜多秀継。

天正9年(1581年)、9歳の時に父が病没し、翌10年に当時宇喜多氏が従属していた織田信長の計らいにより家督を継ぐ。後に元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受け、天正14年(1586年)頃までには秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受け、豊臣氏に対する忠誠心は厚かった。

1590年秀吉が天下統一を成し遂げると、備前国・美作国・播磨国の西部・備中国の東部の合計57万4千石を領する大名となり、豊臣政権内で最若年の五大老として活躍した。

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役には大将として出陣。碧蹄館の戦いでは小早川隆景と共に李如松率いる明軍を打ち破るなどの武功を挙げた。この功により、従三位中納言に昇進した。しかし宇喜多家中では重臣達の勢力争いや宗教問題、秀家自身の素行等、多くの紛争が発生し、優秀な家臣や一門衆の宇喜多詮家らが宇喜多氏を去り、宇喜多氏の前途に暗雲が漂い始めるのであった。

関ヶ原での敗戦、そして八丈島へ
慶長3年(1598年)豊臣秀吉が没した。更に豊臣秀頼の後見役だった前田利家が翌年の慶長4年(1599年)に没すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老の徳川家康が影響力を強めることとなる。そして清正ら武闘派7将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出した。

慶長5年(1600年)家康が上杉景勝討伐のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ、打倒家康のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発して西軍の主力として活躍する。秀家は伏見城攻撃などに参加し、関ヶ原の戦いにおいても主力として積極的に戦い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げる。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切り等で西軍は総崩れとなり、宇喜多隊も壊滅する。各地を潜伏後、島津氏の領国である薩摩国へ逃れ、出家し休復と号する。

戦後は前田利長と島津家久の懇願により死罪は免れ、駿河国久能へ幽閉の後、慶長11年(1606年)八丈島へ配流となる。八丈島では号を久福と改め加賀前田氏・旗本花房氏等の援助を受けて50年を過ごし、明暦元年(1655年)に死去、享年83。

法名:樹松院明室寿光 また、尊光院伝秀月久福大居士

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2006年3月9日

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