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Art Tatum

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詳細 2016年7月18日 00:40更新

ジャズ・ピアノの神様アート・テイタムが好きな人のコミュニティです。
参考:

2ちゃんねるのアート・テイタムスレッド
http://music4.2ch.net/test/read.cgi/classic/1033367789/

google検索で見つけたweb
http://homepage1.nifty.com/iberia/column_tatum.htm
http://homepage1.nifty.com/iberia/score_tatum.htm

アート・テイタム略歴
1910年10月13日オハイオ州トリド生まれ。
1956年11月5日カリフォルニア州ロサンゼルスで尿毒症のため死亡。

 両親ともにアマチュアだが、父はギター、母はピアノを弾いた。
 アートは先天性白内障であり、幼時に数回手術を受けたが、生涯片眼が約25%の視力、片眼は全盲であった。幼時からピアノを弾き、コロムバスのクーシノ盲学校に学んだ。他にギターとヴァイオリン、アコーディオンも習得した。2年間トリド音楽学校で勉強。
 1926年ごろ、トリドでコンボをつくった。
 スピード・ウェップ楽団のピアニスト、ハーマン・ペリーの代役として2週間同楽団で働いたのが縁で、同楽団のレギュラーとなり3か月をすごす。
 1928年ごろは、「チキン・チャーリーズ」というクラブを中心に、トリドのクラブで働き、29年夏にはクラブ出演のかたわら、ラジオ局WSPDのハウス・ピアニストをつとめる。1930年〜31年にかけては、同市「シャトー・ラフランス」のミルトン・シニア・バンドで働く。
 1932年、彼の手腕を高く評価したピアニスト、ジョー・ターナーによって、歌手アドレイド・ホールの伴奏者に推薦され、同年冬ニューヨークに出てホールの伴奏者となったが、この時期は、もう一人のピアニスト、フランシス・カーターとデュオを演じていた。アドレイド・ホールとの仕事は1年半に及んだが同時に彼はニューヨークのナイト・クラブに職をみつけて出演した。
 1933年、マッキンニーズ・コットン・ピッカーズのピアニスト、トッド・ローズが病気となったとき、2週間代役をつとめた。
 1934〜35年なかばまではオハイオ州クリーヴランドのクラブで働き、35年9月〜36年シカゴの「スリー・デューセズ」の専属となる。36年11月、パラマウント劇場およびクラブ出演のためハリウッドへ、また37年はハリウッドとシカゴ「スリー・デューセズ」へ出演。
 1937年冬ニューヨークに出て、「フェイマス・ドア」出演。
 1938年3月渡欧。ロンドンの「シロー」「パラダイス・クラブ」などへ出演。BBCより放送。
 1939〜40年なかばをウエスト・コーストで働き、ニューヨークへ出て「カフェ・ソサエティ」や「ケリーズ」でソロ・ピアニストとして活躍。
 1943年1月、カリフォルニアでトリオを編成(オリジナル・メンバーはタイニー・グライムズとスラム・スチュアート)、「スリー・デューセズ」(ニューヨーク)の専属となる(1943〜44年)。
 1945年〜54年は、クラブ出演。
 1955年以降、死ぬまでの1年半はコンサート出演を主とした。
 1956年8月15日に行われたハリウッド・ボウルでのコンサートは、彼の晩年を飾る最大のもので、聴衆は1万6千人に及んだ。しかしこの時期病気はかなり進行しており、その後計画されていたコンサート旅行をなかばでキャンセルして、ロスの「クイーン・オブ・エンジェル病院」に11月4日緊急入院、翌朝死去した。
出演映画:The Febulous Dorseys これは日本では未封切だが、TVでは数回放映された。ジミーとトミーのドーシー兄弟の伝記映画である。

(The Art of Tatum: Art Tatum solo masterpiecesの油井正一氏による解説より。)

 テイタムの盲目について、最も悩んだのは両親であった。そのため赤ん坊の頃から、計13回も手術をうけたという。その甲斐あって片目だけは、驚くほど視力を回復したのだが、不幸にもある時強盗に出会い、乱斗の末、その目に強いパンチを受け、1/4に落ちてしまったのだそうだ。
 目がみえぬ彼が、どのようにして譜面を勉強したか?
 盲学校で点字記譜法(ブラーユ Braille)をマスタしたのである。のち彼はあるインタヴィユで答えている。
 「メガネをかければ、普通人とかわらず譜は読めるのですが、そのうえブラーユ方式もおぼえたので、だいぶトクをしたような感じです。尤も子供の時は視力がなくて不自由しました」。
 テイタムは周囲の人が身体障害者として彼を扱うことを不満とした。
 頭も抜群によかった。トランプのゲームを好んだが、配られた札を片目の3センチぐらいのところまでいったん揃えると、テーブルの上に伏せたまま最後までとりあげずゲームを続けたという。
 記憶のよさは、人の声にも及んだ。
 渡英した6年後、ハリウッドのクラブで演奏している時、一人のイギリス人が来て、
 「ハロー、アート。ごきげんいかが。きっと私のことをご存知ないと思いますが……」と声をかけたとき、
 「おぼえていますとも。ロンドンのパーティではゆっくりお話できなくて残念でした。あなたのお名前は×××卿とおっしゃいましたね」と答えて、一同を唖然とさせた。
 またある時、ビールのあき缶が落ちた音をきいて、
 「その空き缶はPabst Beerのだ。だってBフラットの音だから」といった。トイレの水洗の音を含めて、彼はすべての音をいいあてることができた。絶対音感をもっていたのである。
 お金はすべて銀行で、まあたらしい5ドル紙幣に換えてもらった。それを一定のポケットに入れ、買い物をするとそれで支払い、釣り銭のうち紙幣は1ドル札ときまっているのでコインを手で判別して別のポケットに仕舞い、いつでも持ち金が何ドル何セントあるかをいうことができた。

(The Art of Tatum: Art Tatum solo masterpiecesの油井正一氏による解説より。)

●アート・テイタムの偉大さ
 評論家バリー・ユラノフは40年代、ハーレムのパーティで、当時一流といわれた3人のピアニスト──ナット・キング・コール、エロール・ガーナー、アート・テイタム──の演奏をきいたあと、座談の一刻をすごした。
 話が「影響」に及んだ時、ナット・コールがまず口火を切り、
 「僕がいちばん影響をうけたのはアール・ハインズ」といい、同意を得るようなまなざしをアート・テイタムに向けた。
 テイタムはいった。
 「僕の場合はファッツ・ウォーラーだ。僕のピアノ・スタイルは完全にファッツ・ウォーラーに発している」
 エロール・ガーナーはピアノの前にすわって、アール・ハインズとファッツ・ウォーラーのスタイルを混合させたような彼自身のスタイルを披露した。
 アール・ハインズとファッツ・ウォーラー……この2人は、ジャズ・ピアノ界に最大の影響を与えたスタイル・メーカーである。
 エロール・ガーナーが無言で示したように、ファッツ・ウォーラー・スタイルを継承した次代のピアニストは、例外なくアール・ハインズの影響もうけ、両者の折衷型に発展していった。
 この点ではアート・テイタムもまた例外ではない。そしてテイタムは、クラシック・ピアノで鍛えた技法を、自分のスタイルに注入した。事実彼はクラシックのコンサート・ピアニストになろうと夢見ていたが、黒人にとってそれが如何に不可能に近いことかをみてとって時、ジャズの道を選んだのであった。
 彼がデビューしたスイング時代を通じて、ピアニストの役割はベーシック・ビートを明確に維持することにあった。ハーモニーは単純なもので、セヴンス、ナインス以上の音が使われることは滅多になかった。だからピアノはリズム・セクションの一員でしかなかった。
 アート・テイタムは他のピアニストよりずっと早く、間断ない左手の4ビートをやらなくなっていた。
 アート・テイタムのソロ・ピアノの大きな特徴のひとつになっているアルペジオは、もともとクラシックを学んだところから発したものだが、彼は巧みにそれをジャズ・イディオムにとりいれて、彼のスタイルの必須の一部分とした。
 同様に彼の進歩的なハーモニック・アイディアも多分にクラシックの勉強に負うところが大きい。モダン・ジャズ時代に入ってから重要視された「あたらしいハーモニー」は、30年代のテイタムの演奏にほとんど取り入れられている。10年ないし20年後、若く経験の浅いミュージシャンによって、大胆な革新と評価されたコード進行をテイタムは早くから用いていた。たとえば、このセットに入っている《When A Women Loves A Man》におけるマイナー・セヴンスからドミナント・セヴンスへの半音階進行は、のちモダン・ジャズメンがトレードマークのように誇示したものであった。
 メロディのインプロヴィゼーションに精根を傾けた当時のミュージシャンと異り、テイタムはハーモニーをインプロヴァイズした。彼は比較的ストレートにメロディを維持する一方で、コーラスごとにハーモニーを変えた。彼はオリジナル・テーマを拡大化されたハーモニーの上にちりばめた。
 このようなコンセプションをもっていたテイタムが、40年代の終りから50年代にかけてのモダン・ジャズの動きに、あまり共感を示さなかったのは奇とするに足りる。
 だが、バッパーたちが手をつけたハーモニーの拡張は、彼がとっくにやり終えていたことであり、一方彼のようにオリジナル・メロディを尊重するミュージシャンの目からみると、バッパーたちがメロディを断片的に切り刻んでしまうゆきかたに、むしろ反撥をおぼえたのではないかと推定されるのである。
 アート・テイタムはいったんスタイルを完成させると、そのスタイルを変える必要性をほとんど認めなかった。しかし、初期のレコードとのちのレコードを比較すると、ハーモニック・アイディアには絶えざる発展がみられる。《Cocktails For Two》、《Emaline》、《Love me》、などの時期をへだてた録音をこのセットに収めたのはそのゆえにであり、これはチャーリー・パーカーなどの異なったテイクと同様、興味深くききわけていただけるものと信じる。
 アート・テイタムの掌の大きさは体格に比して特に大きくはなかったという。ところがその程度の手だと白鍵の9ないし10に届くのがせいぜいなのに、彼は12白鍵をカバーした。如何なる速さでも、つねにくつろぎを失わなかった。
 アート・テイタムは抜群の左手をもっていた。その左手はある意味では、それまでのピアニストの制約された左手を解放したといえる。この点モダン・ピアニストが、ストリング・ベースの進出によって左手の動きを失い、効果を減殺してしまったのは皮肉な現象といわねばならない。

(The Art of Tatum: Art Tatum solo masterpiecesの油井正一氏による解説より。)

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