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宗吾霊堂

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詳細 2017年2月27日 23:47更新

世のため人のために命を懸けた漢

<<義民 木内宗吾 伝>>

今から350年前、寛永より承応年間に亘り、当時の佐倉藩国家老により暴政と極度の重税が行われ、佐倉藩の領民達の苦しみは極限を超え、他国に逃れる者数知れず、路上に餓死するものも現れ、文字通り”地獄”の様相を呈するに至っており、ついにはこの地方に百姓一揆までもが起ったそうだ。

この時、割元名主でありました宗吾(木内惣五郎)は、この現状を見るに忍びず、苦しむ領民を救う為のよい案はないかと、叔父に当たる大仏頂寺の住職へ相談をした結果、御仏の教えを例えに「困難があっても、領民の苦を救うのが貴殿の役目」と、住職の進言を受けてしまう。

その後、よろず思う所あり、宗吾様は各名手を集め、話合いの場を設け、まづ佐倉代官屋敷、そして佐倉藩重役に減税のことを嘆願することを決める。

しかし、その後、嘆願はしたものの、取り上げられなかった。

それではと大挙して江戸に上り領主堀田正信公上屋敷の門前で、藩の重鎮を待ち次期を訴えるものの、そこでも役人に追い返されてしまったという。

宗吾は真面目で、実直な人物だったに違いない。

あらゆる手を考えたあげく、遂にイを決して将軍家側用人 久世大和守広之公への直訴を申し出る事にし、久世大和守広之公を待ち伏せ、駕籠に乗っている機に、訴状を手渡しましたが、残念ながら願書は7日後に却下となってしまった。

万策尽きた宗吾の最後の手段として、彼は将軍への直訴を決意する。

しかし、この時代の将軍への直訴は、自らの死を意味し、家族にも危険が及ぶかも知れなかった。

後の宗吾の最期を考えると、将軍への直訴は水戸黄門のような気楽な話ではなく、今で言うクーデターやテロ行為のようなものだったのかもしれない。

宗吾は、妻子に罪が及んでは不愍であると思い、承応元年12月10日大雪を幸いに江戸表を離れ、我が家を目指して妻子がいる家路に着く。

しかし、帰途の印旛沼の渡し舟は、鎖でつながれ宗吾への詮議は厳重だった。

この時、印旛沼の渡し守「甚兵衛」という男が現れる。

宗吾は、甚兵衛と話をし、彼は宗吾の言葉を理解した。

船で沼を渡し宗吾を家へ戻せば自分も死罪は間逃れない。

しかし、死を覚悟しても領民を救うという、志と熱い想いに共感し、宗吾様の家族を死なせるわけにはいかないと、己の死を覚悟し、鉈で鎖を断ち切り、宗吾を妻子のもとへ、送り届けた。

この時代の言葉や人の共感とは、なんて重いものだったのか。

その後、真冬の雪が舞う中、無事、家にたどり着いた宗吾。

自分が死を覚悟し、直訴を結構する事を家族に打ち明ける。
妻と子供に罪が及んではいけないと、理由を話し、絶縁状を妻と子供に渡しました。

この言葉を受け、行ってはいけないと、泣きじゃくる妻や子供へ悲痛の別れを経て、苦しむ領民を救う為に、再び江戸に向った。

その後、「甚兵衛」は自身の身が縛られ、宗吾の直訴を知られると考え、冬の沼に身を投げて自害する。

承応元年12月20日上野東叡山寛永寺へ四代将軍徳川家綱が参拝に出かけるという話をききつけ、直訴を決行。

結果、命を懸けた直訴は成功した。

嘆願書取り上げ

その後、佐倉領民は飢えの苦しみから救われる事ができたが、直訴の罪に問われた宗吾は、佐倉藩に引き渡され、翌年の承応2年1653年の旧暦の8月3日公津ガ原形場に於いて、死刑となる。

この時、将軍家から、藩の失政をとがめられた佐倉藩主の怒りはすさまじく、絶縁したはずの子をも処刑し、又、当時女子は家督を継がない身でありながら、名前を男子の名前に変えさせて、宗吾様の見ている前で、斬首、死刑。

多くの領民が、涙を流し念仏を唱える前で、宗吾は磔(はりつけ死罪)となり、宗吾の見ている前で、4人の子供は打首の残刑に処された。

このとき宗吾は何を思ったのか。

このむごさをもってしても、直訴という行為の決意がいかに大変なことかがわかる。

その後、むごい死罪の事実を知った、惣五郎の叔父の大仏頂寺の住職は、深く悲しみ、佐倉藩と仏に対し、あまりの無慈悲に激怒しながらも、自身の言葉に責任を感じ、惣五郎の息子の斬首された首もったまま、僧侶の身でありながら自害したといわれている。


また、惣五郎の命を懸けた直訴で救われた多くの領民達は、自分達の生活が救われた代償に、非業な最期を遂げた宗吾とその御家族の墓前で、彼の死を悔やみ長年にわたり号泣嗚咽がとまらなかったそうだ。


自分なりの生き様を貫いた人生、その代償はあまりに大きく、ハッピーエンドではなかったが、彼もまた、漢の中の漢である。

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宗吾様のお話は、日本を代表する義民として、歌舞伎の演目等で全国的にも有名です。

諸説は「佐倉惣五郎と宗吾信仰 」の著者 鏑木 行広から多くを引用しております。

佐倉宗吾と称するのは、堀田領内佐倉城下の住人であったことと、後に己の失政を悔いた領主が、宗吾と名をつけたからで、本名は木内惣五郎といい、慶長17年(1612年)下総国印旛郡公津村(現 千葉県成田市台方)に生を受けたといいます。

世のため人のために非業な最期で殉ずられた宗吾様の御霊を
ご供養するため、この刑場跡に埋葬された宗吾様親子のお墓がある場所が現在の宗吾霊堂となっています。

このコミュニティーは佐倉義民伝の義民佐倉惣五郎と
彼の御霊が安らかに眠れるように祭られた成田市の霊場、宗吾霊堂や、
惣五郎の精神を尊ぶ方々のコミュです。

宗吾霊堂は、成田山新勝寺と同じ真言宗。
正式な名称は、東勝寺といいます。
詳しくは↓

http://www17.ocn.ne.jp/~sougorei/

ウイキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8B%9D%E5%AF%BA_(%E6%88%90%E7%94%B0%E5%B8%82)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E6%83%A3%E4%BA%94%E9%83%8E

参拝に行った事ある方や、こういう人がいた事を心に留めておきたい方、日本と桜を愛する方等々・・

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