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伊藤 若冲

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詳細 2017年5月11日 22:45更新

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----略暦-----

正徳6年(1716)
京都錦小路の青物問屋「桝屋」の長男として生まれる。名は汝鈞、字(あざな)は景和。
■青物問屋とは、野菜を買い取り仲買人に売り渡す商売。長男である若冲は、実家の屋号を継ぐ運命にあった。
■同年、尾形光琳没。同時代には、柳沢淇園(1704〜1758)、与謝蕪村(1716〜1783)、池大雅(1723〜1776)、曾我蕭白(1730〜1781)、円山応挙(1733〜1795)などがいた。

元文3年(1738)
父・宗清没。23歳で「桝屋」の当主となり、四代目伊藤源左衛門を名乗る。
■若冲は、学問が嫌いで字も下手。芸事も出来ず、娯楽も一切受け付けなかった。そんな若冲にとって、当主の務めである商売上の付き合いや会合は、苦痛そのものだった。
■絵を描き始めたのは、当主となってしばらく経った20代終わり頃から。

宝暦2年(1752)頃
大典顕常と知り合う。この頃から若冲居士と号する。
■「居士」とは、在家の禅の帰依者という意味。

宝暦5年(1755)
次弟・宗厳(白歳)に家督を譲る。茂右衛門と改名。
■40歳で隠居。以後、画業に専念する。

宝暦8年(1758)頃
「動植綵絵」制作に着手。
■花鳥画三十幅を作り、後世に遺そうと描き始めた。

宝暦9年(1759)
鹿苑寺大書院障壁画に着賛。
■画家となってから、わずか4年目にまかされる。起用の背景には、大典の後押しがあったと思われる。

明和2年(1765)
「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進。相国寺と永代供養の契約を結ぶ。
■二十四幅の時点で寄進したのは、直前に末弟・宗寂を亡くしたためと推測される。

明和7年(1770)
「動植綵絵」三十幅の寄進を完了。
■父の三十三回忌にあたり、寄進。

安永5年(1776)頃
石峰寺「五百羅漢石像」の制作に着手。
■若冲が下図を描き、石工職人に彫らせた。

天明8年(1788)
天明の大火により、若冲の住まい、相国寺焼亡。
■若冲の人生を一変させた事件。これまで何不自由なく画業を営んでいたが、大火後は絵を売って糧とするようになった。

寛政2年(1790)
大阪・西福寺「仙人掌群鶏図」制作(※)。大病を患う。
■大火後、最も重要な作品。西幅寺に6ヶ月ほど滞在して描いた。
※従来はこの年とされているが、京都国立博物館の狩野博幸氏は1788年制作説を提唱している。

寛政3年(1791)
相国寺との永代供養の契約を解除。
■大火類焼後の困窮が理由。この頃から、妹と共に石峰寺に隠棲か。

寛政12年(1800)
9月8日、あるいは10日没。85歳。
■石峰寺に土葬。10月27日、相国寺で法要が営まれる。

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開設日
2006年2月16日

4119日間運営

カテゴリ
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