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高杉晋作が発案した長州奇兵隊

高杉晋作が発案した長州奇兵隊

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詳細 2016年1月20日 23:59更新

長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。

奇兵隊などの諸隊は1863年(文久3年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A

この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。
当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。
奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。

同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は総督を更迭された。
その後、河上弥市と滝弥太郎の両人が総督職を継いだのを経て、総督は赤根武人、軍監は山縣狂介が務めた。
同年には、京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。
翌1864年(元治元年)、新選組が長州藩の攘夷激派を襲撃した池田屋事件の後に長州藩は京都の軍事的奪回を図り、禁裏を侵して会津藩・桑名藩などの幕府側と衝突し、長州藩の不穏な動きを警戒していた薩摩藩が援軍として加わると形勢が変わり、長州勢は総崩れになり敗北した。
この禁門の変で長州藩は禁裏を侵したために朝敵となった。幕府は朝敵・長州藩を伐つため、第一次長州征伐を行う。
この戦争では奇兵隊も軍事力として戦った。

長州藩が第一次長州征伐に敗北した後に、亡命していた高杉は帰藩。
高杉らが藩政の主導権を握り藩の保守勢力を一掃すると、長州藩の方針は倒幕に定まる。
翌1865年(元治2年)には幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争)が行われ、奇兵隊ほか諸隊も戦った。

1866年(慶応2年)に長州藩は薩摩藩と倒幕で一致して軍事同盟を結び(薩長同盟)、1867年11月(慶応3年10月)の大政奉還を経て、1868年1月(慶応3年12月)に薩長が主導した王政復古が行われた。
奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。
この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。

奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町人が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。
隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んだ。
このため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。
高杉は泰平の世で堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。
隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、ミニエー銃や当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げた。

奇兵隊は、明治維新以降、鎮台の設立に伴って廃止された。1869年(明治2年)から翌年にかけて、隊士の一部が脱退騒動を起こして山口藩庁を包囲した。
騒動の首謀者とみなされた大楽源太郎は、九州の久留米へ逃れる。
大楽は、同志を糾合して再起を図ったものの、騒動は木戸孝允(桂小五郎)により武力鎮圧され、大楽はじめ130人あまりが処刑された。

処罰を逃れた奇兵隊士の一部は農民一揆にも参加しており、明治時代初期に多発した士族反乱にも影響を与えたと言われる。
また、生き残りの一部は豊後水道の無人島を根拠地に住み着き、海賊にまで身を落としたと言う。

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開設日
2014年3月31日

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カテゴリ
学問、研究
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