本門佛立宗は、長松清風(日扇、1817〜90)が開いた、
本門法華宗(旧八品派)から分派した新興宗教の一宗派で、
本山は京都市上京区の宥清寺です。
■「要法本尊」は宗祖の正意に違背
佛立宗では、日扇自作の「要法本尊」を本尊とし、曼荼羅に十界(地獄界から仏界までの十界)を顕(あらわ)すことを、「雑乱勧請(ぞうらんかんじょう)・別勧請」といって嫌い、さらに「十界互具(じっかいごぐ)の曼荼羅は宗祖の本意ではない」などと主張しています。
しかし日蓮大聖人は
『開目抄』に、
「一念三千は十界互具よりことはじまれり」
と示され、
『草木成仏口決』には、
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」
と御教示されています。
この大曼荼羅は、御本仏・日蓮大聖人己心の、事の一念三千の当体であり、
これこそが宗祖の正意にして、末法衆生の正境(しょうきょう)たる御本尊なのです。
さらに大聖人は
『日女御前御返事』に、
「されば首題の五字は中央にかゝり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、(乃至)三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、(乃至)一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる。是を本尊とは申すなり」
と、十界互具御本尊について説かれています。
これに対し、佛立宗が立てる「要法本尊」は、明治10年に本門法華宗から曼荼羅の書写・授与を禁止された日扇が、本門法華宗からの独立を目指して自作し、これを勝手に「要法本尊」と称したに過ぎません。
もちろん、宗祖の御書のどこにも「要法本尊」などという言葉はなく、宗祖の認(したた)められた曼荼羅御本尊とは似ても似つかぬ、実にお粗末な自作本尊です。
日扇は、宗祖が「日蓮が魂」とまで仰せの大曼荼羅を「雑乱勧請の謗法(ほうぼう)本尊」などと下し、大聖人の御正意である御本尊を否定するという、とてつもない大謗法を犯しているのです。
さらに、日扇が門祖と仰ぐ日隆(本門法華宗の門祖)は、宗祖の曼荼羅を本尊と定めているのであり、日扇は門祖・日隆にすら敵対するという愚迷ぶりです。
■「口唱(くしょう)専一」
佛立宗では、法華経の読誦(どくじゅ)を「謗法である」などと主張しています。
しかし、日蓮大聖人は
『月水御書』に、
「されば常の御所作には、方便品の長行(じょうごう)と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」
と御教示されているのであり、
日扇こそが師敵対の大謗法者なのです。
さらに、法華経の一部(法華経一部八巻二十八品のすべて)読誦を行っていた本門法華宗の日隆すらも、
「日蓮薩捶(さった=菩薩)も又、方便品と寿量品と二の略門修行、之(こ)れ有り」
と認めています。
その経文読誦を謗法と下し、拍子木を鳴らして題目さえ唱えればよいという佛立宗の
「口唱専一」は、本門法華宗の煩雑(はんざつ)な一部読誦の修行を嫌った日扇が、
「難しい読誦は信徒の信心の妨げになる」と理屈を言って、要するに楽をしたくて題目だけにしたのです。
宗祖・日蓮大聖人の化儀(けぎ)化法(けほう)を我見によってねじ曲げ、「要法本尊」だの「口唱専一」だのと勝手な本尊と修行を立てる日扇は、間違っても宗祖門流とは呼べない輩です。
■「三祖血脈」
佛立宗では、「日蓮→日隆→日扇」と連なる「三祖血脈」なるものを主張し、自宗こそが宗祖以来の正統であるなどと主張していますが、日蓮大聖人は日興上人に御相承あそばされたのです。
「要法本尊」だの「口唱専一」だのと、宗祖に完全に違背している佛立宗のどこが、宗祖の正統嫡流(せいとうちゃくりゅう)だと言うのでしょうか。
佛立宗などに、大聖人の血脈は断じてあり得ません。
本門佛立宗は、日蓮大聖人を敬うような振りをしていても、その実態は日蓮大聖人の教えとは似ても似つかぬ、大謗法の邪宗教でしかありません。