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今川義元

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詳細 2016年11月27日 17:09更新

『ウィキペディア』より転載
http://ja.wikipedia.org/wiki/

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今川 義元(いまがわ よしもと、永正16年(1519年) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代の武将、戦国大名。

駿河国(静岡県中部)の守護大名である今川氏の第8代目当主。今川氏親と正室は中御門宣胤の娘(寿桂尼)の子。幼名は芳菊丸。正室は武田信虎の娘(定恵院)。子に今川氏真、娘は武田義信の室となっている。「海道一の弓取り」と呼ばれるように、領国経営と外征に才能を発揮して今川氏への戦国大名への転身を成功させ、所領も駿河・遠江・三河から尾張の一部にまで拡大し『天下に最も近い男』と称されたが、尾張に侵攻した際に桶狭間の戦いで寡勢の織田信長の軍に敗死した。


内乱
生まれたとき、すでに同母兄で第8代となる氏輝がいたので、4才で仏門に出されて臨済宗に入門し梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称し、教育係につけられた今川一族出身の禅僧太原雪斎とともに京都に上って五山に学んだ。1536年、兄が急死したため駿河に戻り、異母兄で同じく出家していた玄広恵探との間で家督争いとなるが、雪斎の尽力で勝利。この花倉の乱と呼ばれる家督争いを経て、還俗して今川氏第9代・駿河守護となり、義元と称す。官位は従四位下治部大輔に上る。

家督を継いでまもなく、武田信虎の娘(定恵院)と結婚し、甲斐(山梨県)の武田氏と結ぶ。そのため、かえって旧来の縁戚であった伊豆国、相模(神奈川県西南部を領する北条氏と仲違いし、北条氏綱・氏康父子と駿河東部で戦い、一時その一部を奪われたが、1545年に上杉憲政と手を結んだ事により、これを駆逐。1551年には興国寺城を奪われたものの奪還し、黄瀬川を国境としている。


絶頂期
西では、尾張の織田信秀の進出により圧迫を受けた西三河の松平氏の帰順を受け、松平広忠の子竹千代(のちの徳川家康)を人質に迎え入れようとするが、護送を請け負った三河・田原城(愛知県田原市)の国人領主戸田康光が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまった。これは、前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光を滅ぼしたため、これに憤った戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに怒った義元は戸田宗家をも滅ぼし、その居城であった田原城に朝比奈氏を入れた。竹千代の織田方護送の後も今川に恭順していた松平広忠が死ぬと(1549年)、松平氏の離反を防ぐため織田方の三河安祥城(愛知県安城市)を攻略し、織田信秀庶長子にあたる城将 織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還することとなった。これにより松平氏の所領とその支配下にあった三河の国人領主を直接支配下に組み入れ、駿河・遠江・三河の3ヶ国にまたがる勢力を築き上げ、「海道一の弓取り」などと称された。

1554年、嫡子氏真に北条氏康の娘(後の早川殿)を縁組みし、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した。(この会談は善徳寺の会盟とも言われている。)これにより東の憂いを断つと、信秀の死(1551年)を受け動揺する織田氏に揺さぶりをかけ、尾張東部の知多郡・愛知郡に勢力を延ばした


戦死
1560年、三河守に遷任。この年、大軍を率いて尾張への侵攻を行い、知多郡大高城(名古屋市緑区大高)周辺の諸砦を落とすが、彼自身の率いる本軍は大高城に向かう途上、田楽狭間(現在の豊明市)で休息中に織田信長の襲撃を受け、義元は戦死した(通称「桶狭間の戦い」、『信長公記(しんちょうこうき)』の記述による)。義元の戦死により、三河で松平元康が再び自立し、今川氏は衰退し始めた。義元の後を継いだ嫡子氏真は、8年後に武田信玄によって駿河を追われることとなる。

法名:天澤寺秀峯哲公
墓所:愛知県豊明市 桶狭間古戦場伝説地
塚:愛知県豊川市牛久保町(胴塚)


人物
義元は寸胴短足で馬に乗ることができなかったため合戦の時なども輿に乗り移動したと言われるが、その記述がある資料は江戸時代中期に書かれた物で、信憑性はきわめて低い。また、信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』には桶狭間山から退却する義元が馬に乗っていたという事が書かれてある。また、義元が輿に乗っていたのは、足利将軍家から特別に認められた栄誉(今川氏は足利氏の一門)として輿に乗れたのであって、寸胴で足が短く馬に乗ることができなかったためではない。

公家文化に精通し、都を逃れた公家達を保護していた。しかし、「お歯黒をつけ、置眉、薄化粧をする」という話は後世の作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしても、それは家格の高さを示すものであって弱々しい象徴とはならない。


評価
有力な戦国大名の一人として強大な存在であったこと、特徴ある外見をしていたこと、劇的な形で倒されてしまったこと、自分を倒した相手が覇者になってしまったことから日本史上の最強のやられ役あるいは引き立て役になってしまった観がある。彼に比肩できるのは吉良上野介ぐらいなものだろう。無論、本人が望んでいたわけではないのだが。
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勝手にリンク
今川氏真軍団
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