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邪宗! 立正佼成会

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詳細 2017年10月8日 17:04更新

 「立正佼成会」は霊友会から分派した教団です。

昭和十三年、庭野日敬(にっきょう)(鹿蔵)を会長に長沼妙佼(みょうこう)(マサ)を副会長として、霊友会を脱会したわずか三十人余りの人数で結成しました。

 当初の教団名は「大日本立正交成会」といい、東京都中野にあった会長・庭野日敬の自宅を本部として発足しました。霊友会と同じ在家教団です。

 今では東京都杉並区和田に本部を構え、その敷地内には、大聖堂と称する礼拝所をはじめ、学校、出版社、劇場、研修所、病院等が軒(のき)を並べています。

 機関紙「佼成新聞」は、月四回百六十万部で、月刊誌「佼成」は百六十四万部で、その外にも種々の出版物を発行しています。

 庭野日敬が新訳したという法華経三部経を所依の教義書とし、四諦(したい)法門、十二因縁、六波(は)羅(ら)蜜(みつ)・八正道等を基本的教えとしています。

 会員になると、総戒名をまつることから始めます。

そして、経文(法華経の各品)の一部分を抜き出し、訓読(「我仏(われほとけ)を得(え)てより来(このかた)……」の読み方)の方法で、朝夕勤行をします。

それを「ご供養」といっています。

本尊といわれるものは、かなりの幹部にならなければもらえません。


 グループの座談会を「法座」といい、会員はそこを信仰修練の場としています。
幹部の指導を受けることを「結(むす)んでもらう」といい、また、病気にかかったり、災難にあったりするのは仏の慈悲のムチであるから、有り難い試練として自分の修行に採(と)り入れていく、これを「お悟(さと)り」と教えています。

 昭和四十五年に、会員は約九十五万人位でしたが、平成五年には六百五十二万人(宗教年鑑より)といいますから、新興宗教では創価学会に次ぐ第二の勢力です。
 

 佼成会の主たる内容は霊友会譲りですが、もう一つ奥に、霊友会の元となった西田利蔵の仏(ぶっ)所(しょ)護(ご)念(ねん)会(かい)
(関口嘉一の会とは異なる)
の尾を引くことも忘れてはなりません。

西田利蔵は、その昔仏(ぶつ)立(りゅう)講(こう)に関係があった人、ともいわれます。

 さて、他宗批判は宗教に悖(もと)るとして、「万教同根」を主義とする点は、生長の家と同類です。

その主張が認められたのか、庭野日敬は過日、新日本宗教団体連合会(新宗連)の理事長にもなりました。


 まず初めに、この教団の大枠をつかんでいただくために、「会員綱領」を挙げてみます。


「立正佼成会会員は、恩師会長先生のご指導に基づき、

仏教の本質的な救われ方を認識し、

在家仏教の精神に立脚して、

人格完成の目的を達成するため、

信仰を基盤とした行学二道の研修に励み、

多くの人々を導きつつ自己の錬成に努め、

家庭・社会・国家・世界の平和境(常寂光土)建設のため、

菩薩行に挺身することを期す」(青年部教材)


現在の佼成会は二代目の日鑛(にちこう)が会長です。

そして、日敬は開祖(かいそ)、妙佼は脇祖(わきそ)と呼ばれています。


「 教 団 の 起 こ り 」

 新潟で生まれた日敬は十八才の時上京し、米屋や炭屋に勤め、後に漬物屋や牛乳販売を生業(なりわい)とし、生計を立てていました。

その間、様々な宗教や占い等に関係しながら霊友会に入会します。

子供の病気を予言され、それが当たったのをきっかけに入会し、その後、先祖の霊を祀(まつ)ったら子供の病気が治ったといいます。

この現証に魅(み)された日敬は、ついに霊友会の強信者となり、布教陣の筆頭格にのし上がりました。
 
一方、牛乳の配達先であった客人の中に、病気がちな焼芋屋のかみさんがいました。
病気が治りたい一心で、日敬に勧(すす)められて入会しました。
それが長沼マサ、後の妙佼です。

焼芋屋の店員として働いていた甥(おい)が、ある時腹痛をおこしたが、先祖供養によって不思議にも治った。
その現証を見た妙佼は、全く人が変わったように霊友会にのめりこんでいきます。

 こうして日敬と妙佼のコンビが誕生し、霊友会の布教に加担していったのです。

日敬の霊友会への入信窓口となり、しかもその後の指導者でもあった支部長の新井助信は、よく法華経の講義をしており、日敬はその講義を聴くのを好んだようです。

 日敬・妙佼が霊友会を脱会した経緯については、霊友会の会長・小谷キミが全国支部長会議の席上で、次のような発言をしたからとされます。

 「突然、正面にすわっていた小谷キミ会長が荒々しく演壇に立つと、激しくみんなを非難した。
そして『法華経の講義なんて時代遅れだ。そんなことをするのは悪魔だ』とさえ放言した」(三十年の歩み)
 
「帰り道、庭野青年は長沼マサさんを訪れると、会議の一部始終を話した。
そして、脱会の決意を語った……
 翌朝、恩師の新井先生に会い、ふたりの決心は不動のものとなった」(三十年の歩み)


 日敬が霊友会に入って三年半、妙佼は二年、昭和十三年の一月のことでした。

こうして脱会した二人は同年三月五日、大日本立正交成会を結成したのです。



「 総 括 批 判  」

 佼成会の特徴を総括すると、大体次の四点にしぼられます。

一、日敬が青年期にかかわった多種な迷信や信仰内容。

二、大半が霊友会のマネ。

三、日敬の我見による法華経解釈

四、大聖人の教えとはおよそ関係のない教団。

等ですが、ここでは一と二について少々述べておきます。

 日敬は霊友会に縁する前、勤め先の主人石原淑太郎から六曜(先勝・友引・仏滅等)や
九星(一白・二黒・三碧等)あるいは易占いによる方位方角や五行説等を学んでいました。

 また小林晟高(せいこう)という人からは姓名判断、運勢鑑定を学び、後の佼成会で大いに利用したようです。

二十六才の頃、長女の中耳炎を治そうとして、天狗不動の拝み屋・綱(つな)木(き)梅(うめ)野(の)に関係し、九字を切ったり加持祈祷、水行、穀物断ちや火(ひ)物(もの)断ち等を修行し、ついには弟子にまでなったのです。

 日敬は佼成会発足後、教勢を伸ばすに当たって、これら迷信・俗信・占い・祈祷(きとう)何でも採り入れ、布教の手段としました。

今でも多分にその色が残っているといわれます。

 また、「教菩薩法、仏所護念」と書いたタスキに始まり、青経巻(経本)・霊鑑(過去帖)・総戒名(先祖供養)までが霊友会と全く同じです。

その外、他宗を容認し、慈善事業、平和運動等を推進するのも霊友会譲りです。

 要するに佼成会は、長沼妙佼の霊媒(れいばい)的要素と日敬がかかわった外道の邪義とがその大部分をしめます。

そして、祖霊信仰が基となっている霊友会の先祖供養を継承し、独自に解釈した法華経を加えて教義の屋(や)台(たい)骨(ぼね)としているのです。



「 教 義 批 判 」


≪一、法華の心をころす≫

 庭野日敬が霊友会から脱会したきっかけは、法華経の勉強がからんでいたことは先に述べた通りです。

 諸経の中で、法華経が最も尊いことは判っていたようですが、法華経の説かれた本来の意義までは理解していなかったようです。


 例えば、次のような発言があります。

 「ここで誤解してはならないのは、いままで真実でないことをお説きになったというのではない、いままでの説法もすべて真実には違いないのだが、まだ真実の中の真実を『すっかり』出し切ってはいなかったという意味です」(法華経の新しい解釈)


 これは、無量義経の「四十余年未顕真実」の文を解釈した個所ですが、いかがでしょうか。

無量義経の文の四十余年の諸経は、随(ずい)他(た)意(い)の対機説法であり、あくまでも応病与薬の方便説、仏の悟った成仏の法ではない、これから説くところの妙法蓮華が、一切衆生を救うべき真実法である、というのが本来の意味です。

その意を受けるからこそ、次の『方便品』の文義が明(めい)瞭(りょう)となるのです。

 「世尊(せそん)は法久(ほうひさ)しうして後()要(かなら)ず當(まさ)に眞實(しんじつ)を説(と)きたもうべし」(開結93頁)

 「正直(しょうじき)に方便ほうべん)を捨てて但(ただ)無上道(むじょうどう)を説く」(開結124頁)


そしてまた日敬は、四諦(したい)・十二因縁・六波(は)羅(ら)蜜(みつ)等が、あたかも法華経の根本的教義であるかのように教えています。

法華経の序品には確かに四諦等の文字が出てきますが、それはあくまでも声聞には四諦(苦・集・滅・道)、縁覚には十二因縁(無明・行・識等)、菩薩には六波羅蜜(布施・持戒等)をというように、仏がそれぞれ機根に応じて救う方法をとってきた過去のいきさつを説明したにすぎないのです。

それを日敬は、仏の本懐、あるいは法華経の根本義といわんばかりに解説していますから間違いです。

 「『四諦』『六波羅蜜』というのは、どうしたらわたしたちが日常の生活において直面する苦しみや悩みを根本的に解決して、絶対安穏の境地を得られるかを教えた法門で、釈尊の教えの大きな中心をなすもの」(法華経の新しい解釈)
ともあります。

 法華経が純円の実大乗経であることを知っていたならば、四諦等の小乗の教理を法華経に混入させることはなかったと思いますが、ともあれ仏法の不純性を生む在家教団の宿命ともいえましょう。


 『無量義経』には次のようにあります。

 「未(いま)だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖(いえど)も、六波羅蜜自然(じねん)に在前(ざいぜん)し」(開結653頁)


これを大聖人は『観心本尊抄』に

 「文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書653頁)
と説明されています。


 釈尊の出世の本懐といわれる法華経は、十界互具・一念三千・二乗と悪人・女人の成仏義、あるいは仏の三世常住を顕わしたものです。

更には「権門の理」を破して妙法広布をするところに、その本意があるはずです。
佼成会の教えには、それらの内容が全くありません。

かえって法華経の理をくつがえす内容ばかりが目立ちます。


次の発言もその一例です。

 「地獄界にいるものにも、修羅界にいるものにも仏性の種はほんのチョッピリながらあるのであって……」(法華経の新しい解釈)

「チョッピリある」とはおよそ不適当な表現です。


「悉(しつ)有(う)仏(ぶっ)性(しょう)」の仏語を疑い、十界互具の理を壊す誤った解釈と言わざるをえません。


 また、次のような仏の本迹論をふりまわす個所もあります。

 「この宇宙ができてからこのかた、ずっと仏は宇宙のどこにも満ち満ちておられるわけです。
そういう意味の仏を『本仏』といいます。
 その『本仏』が必要あって人間の形をとってこの世に出現されたのが『迹仏』としての釈尊です。
……(略)ですから、『本仏』『迹仏』どちらが尊いとも、大切だとも、区別することはできないわけです」(法華経の新しい解釈)

なんとも浅はかな理解の仕方でしょう。


 始成正覚(しじょうしょうかく)と久遠実成(くおんじつじょう)の仏の本迹は天地雲泥(うんでい)の相違があることを知るべきです。

 伝教大師は法華秀句という書き物の中で、
「雖讃法華経(すいさんほけきょう)還死法華心(げんしほっけしん)」
(法華経を讃(さん)すと雖(いえど)も還(かえ)って法華の心を死(ころ)す)
と言っています。


法華経をほめたたえているつもりでも、かえって法華経の本意をころしてしまう、との意味です。


佼成会の日敬は、まさに法華経の心をころした人といえます。



≪二、本 尊 に 迷 う≫

 佼成会は、霊友会の祖霊信仰を受け継いだ教団ですから、独自の本尊はもともとありません。

 今でこそ「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を一応の礼拝対象と統一していますが、常々の観念としては雑多なものを本尊としているようです。

佼成会が今使ってる経本の観念文には、釈迦の外に次のようなメンバーが載っています。

多宝如来、十方分身三世の諸仏、上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩・文殊・普賢・弥勒(みろく)等の菩薩、高祖日蓮大菩薩、末法鎮守七面大明神、諸天善神等です。

 本尊とは「根本尊(・・)崇」(根本から尊(とうと)び崇(あが)める)の略です。

御書には、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄 御書1275頁)
とあります。

勝れたものは、そんなにたくさんあるはずがありません。

尊いものがたくさんあるように見えるのは、取りも直さず迷っている証拠です。


 なお、松野純孝編による「新宗教辞典」には、佼成会の本尊について、次のように解説しています。

 「霊友会教団から独立したころは、霊友会教団当時から祀っていた『お曼荼羅』と、毘沙門天王を守護神として勧請。
十五年から中央に『南無妙法蓮華経』、右に『天壌無窮』、左に『異体同心』。十七年から、毘沙門天王に代えて、大日如来を守護神に。
二十年十月から、日蓮によって図顕された大曼荼羅であった」

 毘沙門天から大日如来まで祀(まつ)った佼成会の本尊雑乱はどこからきているかといいますと、副会長だった長沼妙佼の神がかりによるものと思われます。


 「霊友会では、降神して啓示(けいじ)を聞くことを重要な行としていた。……(略)下がってくる〈神〉は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった」
と日敬は自伝に書いています。


 要するに、本尊のない教団から分派し、本尊に迷う宗派に関係してきた佼成会が、まともな本尊が無いのは、もっともな道理です。



≪三、佼成会の真実顕現とは≫

 立正佼成会がいう真実顕現とは、昭和三十三年に「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を像造し、会の本尊として内外に発表したことです。

実は昭和二十年にこれを一度発表しています。

ところがその時は、会員に浸透(しんとう)しなかったため、今回の再発表となったと庭野日敬は自伝に書いています。

 日敬が釈迦本尊を決めたことには日敬なりの目(もく)論(ろ)見(み)がありました。
それは、一つは創立以来の教団運営を方便であったとし、その方便の時代は終わったとすること、
二には内紛により危機に瀕(ひん)した組織の再編、
そして三には教義の確立、の三つの理由であったとされます。
 

まず、第一の方便の時代とはいかなる意味かを検証します。
 
日敬は方便という言葉を、次のような意味に使っています。

 「発足したばかりの宗教団体にとって、最初から抽象的な理想だけを説いてはおられない。 庶民大衆の切実な展望に応える〈方便〉の教えから入らざるをえなかった。それで取りあえず霊友会の信仰活動を踏(とう)襲(しゅう)して、〈病気治し〉を主たる活動としたのであった」(自伝)


 すなわち、九字を切っての病気治し、あるいは九星占いや姓名判断等をして人を集めてきたことが、日敬の言う方便だったのです。

加えて、長沼妙佼の霊能的神がかりも方便の一つでした。

方便がこのような迷信邪信ですから、それによって開かれる真実なるものも、釈迦立像などという堕獄(だごく)本尊となったのも当然でしょう。


 次に第二の理由である組織内紛については、昭和三十一年一月頃、土地を不法に買い占めたとか、寄付を信者に強要した等の失(とが)で、日敬は国会で証人喚問をうけたのです。

また、同じ年の八月には、教団の幹部たちが妙佼を教祖に仕立て、日敬を上層部から締め出そうとした事件が起きました。

これらの事件により、佼成会の組織はかなり動揺(どうよう)しました。

それを立て直すことが第二の理由だったというわけです。
 

第三の理由である教義の確立とは、教団創立以来、占いや姓名判断で会員は多数集めたものの、さしたる教義もない状態では世間体も悪かったのでしょう。

そこで法華経を教義の中心としつつ、大衆に迎合(げいごう)するためには、本尊を釈迦像とすることが得策と思った日敬はそれまでの曼荼羅を捨てて釈迦像を拝む形態に路線変更したのです。
 

それは彼の
 「私は昭和三十三年一月五日の『佼成新聞』に『久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊こそ本会の本尊である』と宣言し、いわゆる真実顕現の第一声としたのであった」(自伝)

 「今までの交成会(ママ)も、創立から二十年間は、いわば方便の時代だった。その二十年の修行を経て、今、初めて真のご本尊を勧請できる時代が来た、と言えるのだ」(三十年の歩み)

との言からも明らかです。


 日敬は発足以来の二十年間を、方便の時代だったと弁明し、釈迦立像を本尊としたことを、おこがましくも、釈尊が四十余年間調機調養(じょうきじょうよう)を経て真実の法華経を説いた姿と全く同じである、と述べたもので、かかる末法弘通の法体(ほったい)と付嘱を無視した増上慢の邪義には、釈尊もさぞかしお嘆(なげ)きのことでしょう。



≪四、宗祖を悪しく敬う邪義≫

 日敬が大聖人をどのように見ていたかは、次の両文をみれば判ります。

 「日蓮聖人は考えられました。禅も、念仏も、その他の宗派も、それぞれいい教えには違いないけれども、いずれも仏の教えを一点だけ集中的に見つめているだけで、円熟した完全さがない」(仏教のいのち 法華経)

 「宗派意識というものを一応ご破算にして、お釈迦様のご真意を行ずる事が真の仏教者であると叫ばれたものと私どもは解釈いたしておるのであります」(自伝)


 日敬には、大聖人の大獅子吼(ししく)たる破邪顕正の四箇の格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)の意義が全く理解されていないようです。


 折伏精神のかけらもない日敬は、また、次のような発言もしています。

 「『法華経』が最高の教えであることは間違いないのですけれども、それを讃えるためにほかの経典をけなしたりするのは、心得違いといわなければなりません」(法華経の新しい解釈)
 

宗祖の「謗法を責めずして成仏を願わば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」の御金言を一体どう拝するのでしょうか。


 更に、次の一文は許しがたいものです。
 「日蓮大聖人は、久遠実成の本師釈迦牟尼仏(本仏)を中心とされた教学を樹(た)てられたものと、私どもは信じておるものであります」(自伝)

 大聖人を冒涜(ぼうとく)する不相伝の邪義そのものであります。

次に『本尊問答抄』の一節をもって破折の文証とします。
 「問うて云はく、末代悪世(あくせ)の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」(御書1274頁)
と。

さて、日敬は日蓮正宗の御本尊を貶(けな)して次のようにもいっています。

「〈物〉に帰依し、〈物〉を礼拝し、〈物〉に祈願してはなりません」(法華経三部経5)

「いまだに、楠の板ぎれなどを拝み、依存する人々があるようですが、そういう〈物〉に依存するくらいならば、宗教などはスッパリと投げ捨てた方が賢明なのです」(法華経三部経5)

 では、佼成会の大聖堂に祀(まつ)る釈迦立像は一体何なのでしょう。

もし、釈迦像は物ではなく、大曼荼羅だけは物だというなら、それは全く次元の低い大謗法の偏見という外ありません。


 大聖人は『観心本尊抄』に
 「草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃(たの)み奉(たてまつ)ること無(む)益(やく)なり」(御書645頁)
と仰せです。

依正不二・色心不二の大聖人の仏法の深義は日敬には理解すべくもないようです。
 「日蓮聖人は、日本の仏教に生命を吹き込まれた最もすぐれたお方であると信じています」(法華経の新しい解釈)
と、日敬は大聖人を自分勝手にたたえていますが、「日蓮を悪しく敬った」大謗法は、厳しく断罪されることでしょう。

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開設日
2013年2月7日

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カテゴリ
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