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超人池田大作

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詳細 2014年10月2日 14:34更新

写真は1961年頃

池田 大作

生年月日 1928年1月2日(84歳)

出生地 日本東京都大田区 出身校 富士短期大学 現職 創価学会名誉会長 創価学会インタナショナル 会長 称号 創価大学名誉博士・名誉教授 準学士(富士短期大学) マハトマ・ガンディー世界平和賞 親族 長男・池田博正 二男・(一般人、故人) 三男・池田尊弘 配偶者 妻・池田香峯子

第3代 創価学会会長 任期 1960年5月3日 - 1979年4月24日

池田 大作(いけだ だいさく、 1928年1月2日 -)は、日本の宗教家、作家。

宗教法人・創価学会の名誉会長、SGI( 創価学 会インタナショナル)会長。 山本 伸一(やま もと しんいち)、法悟空のペンネームで作家 活動もしている。

入信以前

1928年 1月2日 東京府荏原郡入新井町(現在の東京 都大田区大森北) [1][2][3] に海苔業者 [4] の父、 子之吉(ねのきち)と母、一(いち)の間の 第6子(5男)として生まれる [5][6] 。 1940年 3月 尋常小学校卒業の後、兄が勤めていた 「新潟鐵工所 」に就職 [3] 。 8月 肋膜炎を患い茨城県の結核療養所へ入院 するための順番待ちをしていた中で終戦を迎 える [4] 。 9月 新橋にある「昭文堂印刷」で 文選工をす る傍ら、私立の「東洋商業高校」(現、東洋 高等学校)に編入 [1] 。 1946年 東京都大田区森ヶ崎にある「協友会」に加 入 [7][8] 。 高校卒業と同時に「昭文堂印刷」を退社。半 年後、京急蒲田駅 裏にある中小企業の組合 「蒲田工業会」(現:「蒲田工業協同組 合」)に勤務 [9] 。

入信以降

1947年 3月、東洋商業学校を卒業。 8月14日 小学校時代の同級生の女性から「 仏 教や哲学のいい話がある」と誘われ 座談会に 出席。戸田城聖の御書講義を受け、 小平芳 平の折伏を受け、入信を決意、8月24日、創 価学会に入信手続きを行なう [10][8] 。入信し たことで、家からは勘当状態になる。 「創価学会#1928年 - 1949年 」も参照

1948年 「大世学院」(後の東京富士大学短期大学 部)の政経科夜間部に入学。 1949年 1月3日 「日本正学館 」に入社 [4] 。少年雑誌 『冒険少年』(同年8月に『少年日本』と改 題)の編集に携わる。 5月 「日本正学館」編集長に就任 [1] 。 「大世学院」を中退 [11][12] 。 10月 「東京建設信用組合 」に入社。 1950年 10月 「大蔵商事」(現:「日章」)に移 動。 [13] 。 1951年 5月3日 戸田が創価学会の第2代会長に就任。 5月 蒲田支部大森地区の地区委員に任命され る。 7月 青年部(男子部)が結成され、第1部隊 長になる [8] 。 「龍年光#来歴 」も参照

1952年 2月9日 創価学会青年部の教育参謀に [11] 。 3月 参謀室長となる。 5月3日 白木香峯子 と結婚 [1] 。 1953年 11月25日 長男博正の誕生を期に、正式に 「太作(たいさく)」から「大作(だいさ く)」に改名 [1][14] 。 1954年 3月30日 青年部参謀室長に任命される [1] 。同 日 設置された「情報部」の最高顧問ともな る [1] 。この頃、「大蔵商事」の仕事を離れ る [1] 。 12月3日 新設された「渉外部長」を兼任。 1955年 3月11日 北海道小樽市の小樽公会堂における 日蓮宗と創価学会との法論において司会を務 める。 詳細は「創価学会#小樽問答 」を参照

1957年 7月4日 参院大阪選挙区の 補欠選挙が行われ た際、創価学会員に戸別訪問や日雇い労働者 達に候補者名の氏名の入ったタバコを渡すよ うを指示したとして公職選挙法違反 (買収) の疑いで逮捕され、大阪東警察署 と大阪拘置 所に勾留。 詳細は「大阪事件_(創価学会)#概要 」を 参照

7月29日 創価学会幹部45人と共に 起訴され る。 詳細は「大阪事件_(創価学会)#創価学会 の対応」を参照

後に検察官より禁固10か月の求刑を受け る [15] 。 1958年 4月2日 戸田が死去(58歳没)。 4月20日 戸田の「学会葬」で司会を務め る [16] 。 6月 自ら新設した 総務を青年部参謀室長と兼 任 [17] 。 1959年 6月2日 第5回参議院議員通常選挙 において選 挙参謀を務める。 6月30日 青年部参謀室長を辞任し参謀室の 北 条浩、龍年光と共に創価学会 理事に就 任。 [17] 。

会長就任以降

1960年 3月30日 戸田の三回忌法要を前に、会長への 就任を正式に要請され、4月14日、正式に会 長就任を受諾 [18] 。 5月3日 創価学会第3代会長に就任。戸田の 七 回忌までに300万世帯の信徒獲得 [19] と邪教撲 滅を目標に掲げる 「折伏大行進#歴史 」も参照

6月、池田会長就任に反対し理事の 石田次 男を会長に推す幹部が、学会内に別組織『顕 徳会』を立ち上げた。顕徳会の意志に男子部 幹部約200名などが賛同し気勢をあげたが、 わずか1年で解散となる。 [20]

10月 北・南米を訪問。 1961年 11月27日 公明党の前身「公明政治連盟」が 発足 1962年 1月25日 「大阪事件」で無罪判決が言い渡さ れる。 1963年 10月30日 リヒャルト・クーデンホーフ=カ レルギーと会見。 1964年 5月3日 第27回本部総会において、政党の創 設と衆議院進出、ならびに正本堂の建立・寄 進の計画を発表。 宗門から法華講総講頭に任命される。 11月17日 「公明党」を結成。結党宣言 で、日蓮の『立正安国論 』を引用し、「『 王 仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とす る」旨を謳う。 1965年 1月1日 『聖教新聞』紙上で小説『 人間革 命』の連載を始める。 1968年 9月8日 第十一回創価学会学生部総会におけ る講演で、中華人民共和国 の正式承認と日中 国交正常化、中国の国連加盟などを提言。 1970年 創価学会と公明党に対する批判本に対して、 創価学会員、公明党議員らが出版・流通を妨 害したとされる「言論出版妨害事件 」に関 し、野党議員が池田の証人喚問を要請 [21] 。 5月3日 創価学会第33回本部総会において、 「言論妨害という意図はまったくなかった が、結果として、妨害と受けとられ、関係者 に圧力を感じさせ、世間にもご迷惑をかけて しまったことは、まことに申し訳ないと残念 に思っております」 [22] と謝罪、公明党と創 価学会の分離を約束。 詳細は「言論出版妨害事件#池田会長の 公式謝罪」を参照

1971年 4月1日 創価大学を創立。 1972年 イギリスの歴史学者アーノルド・J・トイン ビーと対談。 1974年 4月1日 アメリカ・カリフォルニア大学ロサ ンゼルス校(UCLA)のディクソン講堂で講演。 5月29日 香峯子や幹部らと共に中国を初訪 問。 9月 ソ連を訪問し、 アレクセイ・コスイギ ン首相と会見。 10月29日 創価学会の代表役員を辞任し、 北 条浩が代表役員並びに理事長に就任。 11月 『中国の人間革命』( 毎日新聞社 刊) を出版 12月29日 松本清張の仲介により、日本共産 党の宮本顕治委員長と松本の自宅で会談。創 価学会と日本共産党とが互いの存在を認め、 相互不干渉を約束する、いわゆる「創共協 定」を結ぶ(発表は約7ヶ月後の翌1975年7 月)。 詳細は「日本共産党と創価学会との合意 についての協定」を参照

創価学会本部総会で、「七つの鐘」構想を発 表。1990年までに広宣流布の総仕上げを目 標に掲げた。 1975年 1月1日 創価学会本部において 本尊の開眼入 仏法要を行う [23][24] 。 1月 創価学会の世界的組織、SGI(創価学会 インタナショナル)の会長に就任。 1月9日 イェール大学 客員教授加藤周一と ニューヨークで会談。 創価学会の青年部が中心になって集めた 核廃 絶・原水爆禁止の1千万人の署名をニュー ヨークの国連本部で事務総長に手渡す。 1976年 池田と創価学会員との不倫関係を報じた 月刊 誌『月刊ペン』に対し、名誉毀損に当たると して創価学会及び相手とされた創価学会員ら と共に月刊ペン社の発行人と編集長隈部大 蔵を刑事告訴。 詳細は「月刊ペン事件 」を参照

8月 宮本委員長から「創共協定」を遵守する ようにと、会見を申し込まれるが、拒否。公 明党からの異論が大きくなり(この件に関し て後年、当時創価学会の顧問弁護士であっ た山崎正友の暗躍が取り沙汰されている)、 「創共協定」は死文化する。 1977年 1月15日 第9回教学部大会で「仏教史観を語 る」と題する講演を行う。寺院否定論など、 独自の教義を打ち出し、創価学会独自の経 本を作る。(「昭和52年路線」)これに反発 した日蓮正宗内の若手僧侶が創価学会の教義 逸脱を正すという活動を始める。 詳細は「創価学会#昭和52年路線 」を参 照

「正信会#結成までの経緯 」および「 日 達#日達と創価学会の軋轢」も参照

1978年 6月30日 「教学上の基本問題について」と題 し、教義逸脱を是正することを『聖教新聞』 紙上で表明。 9月3日 『聖教新聞』が本尊模刻の事実を認 める記事を掲載 [1] 。創価学会側は本尊の謹刻 について事態の収拾のために他の7体の本尊 は総本山へ納められることとなった。 11月7日 本尊謹刻などについての院達を不服 とする一部宗内を治めるため、創価学会創立 48周年記念登山代表幹部会として、2千人の 創価学会幹部、全国の教師と共に大石寺に登 山を行い、本尊模刻を初めとする教義逸脱を 謝罪(おわび登山) [1] 。

名誉会長就任以降

1979年 4月24日 日蓮正宗との問題で創価学会会長を 引責辞任。新しく創設したポストである名誉 会長に就任。終身制だった会長職を5年の任 期と変更、後任の会長には北条浩が就任。 詳細は「創価学会#名誉会長と歴代会 長」を参照

4月26日 法華講総講頭を引責辞任。他の法華 講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約 束。日蓮正宗の管長日達より、法華講名誉総 講頭の辞令をもらう。 5月3日 日蓮正宗の法主、日達が池田名誉会 長ら創価学会幹部の反省を受け入れ、問題の 収束を宣言。 1982年 10月15日 東京地裁における『月刊ペン』に 関する差し戻し裁判(第27回公判)に検察側 の証人として出廷。 「月刊ペン事件#差し戻し審(地裁) 」 も参照

1983年 1月25日 「SGIの日」記念提言を発表(これ 以後、毎年発表)。 6月 ルーマニアを訪問、当時の大統領だっ たニコラエ・チャウシェスク と会談。「大統 領は愛国主義者であり、平和主義者であり、 民族主義者であることがよく、理解できまし た」との賛辞を贈る [25] 。しかしこの6年後ニ コラエ・チャウシェスクは長期にわたり独裁 政治を行ったとしてルーマニアの人民裁判で 死刑判決が下り死刑が執行された。 8月8日 「世界保健機関 」を初め、国連機関 への貢献が評価され「国連平和賞 」を受賞。 なお、国連平和賞は国連の名称が付いている が、国連の公用語 [26] 。には国連平和賞の名 称がない。また国際連合(United Nations) は同賞を制定、発行していない。 詳細は「国連平和賞 」および「 国際連 合」を参照

1984年 1月2日 日達の後を継ぎ、67世の 法主となっ た 日顕により再び「法華講総講頭」に再任 される。

日蓮正宗との決裂、日蓮正宗からの破門 宣告以降

1990年 10月31日 アフリカ民族会議 (ANC)副議長 だったN.マンデラ と会談。 11月16日 第35回本部幹部会において、宗門 および日顕を批判。 12月13日 日蓮正宗より創価学会に対して池 田のスピーチの真意を問いただしたが「出処 不明のテープを本とした文書は受け取ること ができない」と創価学会は拒否。 12月27日 日蓮正宗は法華講総講頭に任期制 を導入。これにより任期終了と共に池田が法 華講総講頭の資格を自動的に失う。 1991年 TBSの取材に対し日蓮正宗との対立について は、「より高い次元に行くための現象」と説 明、日蓮正宗からの独立をきっぱりと否定。 11月28日 創価学会とSGIが日蓮正宗から破門 される。 詳細は「創価学会#対立が高じ破門とな る」および「 日顕#創価学会破門 」を参 照

1992年 8月11日 池田自身を含む全創価学会員が日蓮 正宗から信徒除名処分。 1993年 日寛の本尊を創価学会が会員に配布。 詳細は「創価学会#本尊・本仏 」を参照

8月8日 第69回創価学会本部幹部会におい て、細川連立政権 の内閣発足前日に公明党が 大臣ポストを獲得したと語ったことが、国会 で問題となる [27] 当時創価学会会長であっ た秋谷栄之助 は国会で、「当日の新聞の閣僚 予想記事の内容を話したのであって、党から 何か事前に連絡や相談があったのではない」 という旨を説明。 9月24日 アメリカの ハーバード大学で「21世 紀文明と大乗仏教」と題して講演。 12月18日 オウム真理教 が池田殺害を計画。 創価大学キャンパス内でサリンを噴霧。池田 は被災を免れるが、牙城会員数人が被災。新 実もサリンを吸い込み一時重体に陥る。 詳細は「池田大作サリン襲撃未遂事件 」 を参照

「新実智光#オウム真理教での略歴 」も 参照

1995年 4月 『中央公論』1995年4月号において、 田 原総一朗と対談。14年ぶりに国内 ジャーナリ ストのインタビューを受ける [28] 。 11月28日 宗教法人法 改正の問題で、池田 を参考人招致しようとする自民党に対し、公 明党系の新進党国会議員やその秘書ら約300 人が、佐々木満委員長を委員長室に閉じ込 め、 ピケを張り、座り込みをして審議再開 を妨害。最終的に創価学会の法律上では責任 者ではない池田の招致は見送られ、法律上の 代表者となっている秋谷栄之助 会長を招致す ることで決着。 1996年 2月11日 「戸田記念国際平和研究所」を設 立 [28] 。 6月、女性信者が過去数回にわたり池田か ら強姦を受けたという架空の訴えを起こされ る。 詳細は「池田大作レイプ訴訟 」を参照

1997年 12月1日 日蓮正宗の一部改正に伴い、創価学 会員の日蓮正宗の檀信徒資格が喪失。 詳細は「除名#宗門の除名 」を参照

1998年 11月27日 東京・元赤坂の迎賓館で中華人民 共和国主席江沢民と会談。 1999年 6月4日 フィリピンのジョセフ・エストラー ダ大統領と会談。 12月6日、創価学会の機関紙、創価新報に掲 載された記事および写真に対する宗門との民 事裁判で、東京地方裁判所は宗門の訴えを全面 的に認め、被告の池田大作、および創価学会に 対し原告1人当たり200万円の支払いと、機関 紙における謝罪記事の掲載の命じる判決が下っ た。 [29]

2002年 池田は会則を変更し、初代会長 牧口常三郎 、 第2代戸田、第3代池田の「三代会長」を、 「永遠の指導者」とする規定を入れる。 2003年 3月22日 元ソ連大統領のミハイル・ゴルバ チョフと会談。 4月末〜6月にかけて、池田が重病で入院した という情報がマスメディア を駆け巡る。 脳梗 塞や心臓病だとの憶測が飛んだが、創価学 会広報室は「風邪と疲労で体調を崩した」と のコメントを出す。以後、複数回にわたり重 病説や死亡説がマスメディアを駆け巡る事が おおくなった。 詳細は「創価学会#池田大作重病説、死 亡説」を参照

2004年 12月 アメリカの世界的経済誌『 フォーブ ス』(Forbes、2004年12月27日号)は、2004 年9月6日号に「先生の世界」(「Sensei's World」)と題して、池田及び創価学会に関 する記事を特集し掲載。 [30]

2006年 9月22日 首相就任直前の 安倍晋三の希望で、 極秘裏に東京都内の創価学会の施設で、会談 を持ったと主要新聞(『産経新聞』を除く) を初め各種メディア [31] が伝えた [32][33] 。 9月28日 小泉純一郎 総理と会談 [34] 。 11月30日 国際原子力機関 (IAEA)のM.エル バラダイ事務局長と会談。 2007年 4月12日 来日中の 中華人民共和国首相 温家 宝と会談。日中友好を訴えた [35] 首相の国会 演説を「不滅の名演説だった」と讃え る [36] 。 2008年 5月8日 中華人民共和国主席 胡錦涛と会 談 [37] 。 2010年 5月の本部幹部会以降、体調不良から創価学 会内の公式行事を全て欠席、現在へ至る。そ のため重病説が一部マスメディアで取り上げ られた [38] 。

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参加メンバー 3人
開設日
2012年12月16日

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カテゴリ
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