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布袋寅泰/気まぐれ天使

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詳細 2016年12月1日 22:50更新

布袋寅泰/気まぐれ天使

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布袋 寅泰(ほてい ともやす、本名同じ、1962年2月1日 - )は、群馬県高崎市江木町出身の日本のミュージシャン、ギタリスト。

IRc2 CORPORATION所属。身長187cm。2012年夏よりイギリス・ロンドン在住。

活動概観

1981年、BOØWYのギタリストとしてデビュー。BOØWY解散後はソロ活動の他、吉川晃司とのユニット・COMPLEX、他ミュージシャンへの楽曲提供など幅広い活動をしている。また、レコーディングではギターだけでなく、ベース、ドラムス、キーボードなども演奏する。ソロ作品の代表曲は「さらば青春の光」、「サレンダー」、「POISON」、「スリル」、「バンビーナ」など。

また、海外では『HOTEI』名義で、イギリス、ドイツなど欧州でアルバムをリリースしている。イギリスのロックバンド、ジーザス・ジョーンズと親交があり、ジョイントツアーも行った。近年は映画やCMへの出演等、俳優としての活動も行っている。

「最新のHOTEIが最高のHOTEI」がモットー(ポルシェ社のキャッチコピーから)。現在の愛車はトヨタのアルファード、AMGのE63T、シボレーのエクスプレスバン、アストンマーチンのV8ヴァンテージ。

A-ROCK本選会にてアイデア賞を受賞し、17歳(高校3年時に中退後)の時上京。 1981年に氷室京介らと共に暴威(後に「BOØWY」と改名)を結成。翌1982年にリリースしたアルバム『MORAL』でデビューする。BOØWYは1987年12月24日渋谷公会堂で解散を発表し、翌1988年4月に行われた東京ドームでのライブをもって活動を終えた。

BOØWY初期には、演劇型アプローチのロックバンド、AUTO-MOD(他に、高橋まこと、PERSONZの渡邉貢らが在籍)やPETSというバンドにも参加していたり、ギタリストとして知られるようになってからは、鈴木雅之のソロデビュー曲『ガラス越しに消えた夏』をはじめ、吉川晃司・中島みゆき(後藤次利プロデュース)、アニメ『ストップ!! ひばりくん!』ED、『風の谷のナウシカ』サウンドトラック、山下久美子(吉田建プロデュース)などのアルバムに参加している。 また1985年6月から8月にかけては泉谷しげるのバックバンドのメンバーとして、1986年以降は当時の妻だった山下久美子のバックバンドのメンバーとしても活動していた。

BOØWYでの活動を終えて、氷室京介が1988年7月21日にソロデビューしたのに続き、半年後の同年10月にソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』をリリースし、ソロ活動を開始。藤井丈司・ホッピー神山とのコラボレーションによるギターとコンピュータの融合で歴史に残る斬新なアルバムとして注目された。イギリスにおいてシングルを発表するも注目されることはなく、同年12月に吉川晃司とCOMPLEXを結成し、シングル「BE MY BABY」でデビュー。2枚のアルバムを発表したが、音楽性の違いで吉川と対立し、1990年11月8日に行われた東京ドームでのライブをもって無期限活動休止に入る。

COMPLEX休止後は一貫してソロ活動に専念する。音楽プロデューサーとして今井美樹、相川七瀬、TOKIO、藤井フミヤ、JILL(PERSONZ)や江角マキコなどのアーティストに楽曲を提供したり、『新・仁義なき戦い』や『KT』などの映画音楽も手掛ける。また『新・仁義なき戦い』や『サムライ・フィクション』等では俳優としても活躍。その長身と強面を生かし、永瀬正敏とのコマーシャルにも出演。1990年-1993年、NHK-FM『ミュージック・スクエア』木曜日分のパーソナリティを務める。

1996年、マイケル・ケイメンからのオファーでアトランタオリンピックの閉会式に出演。上記イベント「AONIYOSHI」をきっかけに交流を深めたケイメンとギターとオーケストラとの融合作品『GUITAR CONCERTO』に参加したり、「THANK YOU & GOOD BYE」のプロデュースをケイメンに依頼した事もあった。

2003年、クエンティン・タランティーノからのオファーにより、『新・仁義なき戦いのテーマ』が『BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY』として映画『キル・ビル』のメインテーマに採用される。これによりイギリスのiTunes Storeの音楽部門で1位を獲得したり、欧州サッカー連盟の入場テーマにも使用されたりと、同曲の知名度は飛躍的に上昇した。

2007年、 『HOTEI presents "SUPER SOUL SESSIONS" BRIAN SETZER vs HOTEI vs CHAR』と冠したライブにおいて、Charとブライアン・セッツァーとの競演を果たし、翌2008年にはKREVA、亀田誠治との単発ユニット『The THREE』にて、映画『隠し砦の三悪人THE LAST PRINCESS』の主題歌をリリースしている。

長らくソロ・ミュージシャンとして活動していたが、2011年4月28日に公式サイト上にて、東日本大震災の復興支援ライブとして21年ぶりに東京ドームにてCOMPLEXの一夜限りの復活を発表。当初は7月30日のみの予定だったが、5月末には7月31日の追加公演も発表された。『日本一心』と銘打ったこのライブの動員数は2日間で10万人以上、収益は6億5431万8473円に上った。収益金は震災の復興、復旧に全額寄付された。

同じく2011年には、映画『ミッション:インポッシブル』シリーズのメインテーマを布袋がアレンジするという形で、12月に公開された同シリーズの第4作『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』の日本国内向け宣伝用楽曲を手掛けている。

音楽性・プレイスタイル

BOØWY時代は8ビートを基調としたポップな楽曲(いわゆるビート・ロックやパワー・ポップ)をメインに制作していたが、ソロとなってからはデジタルロック、ニューウェイヴ、ファンク、グラムロック、ポップ・ロック、プログレッシブ、テクノ、クラウト・ロック、ブラス・ロック、レゲエ、パンク、アンビエント、ロカビリーなどをはじめとした様々な要素を取り入れたサウンドを展開しており、毎回音楽コンセプトを変え、世界観の異なる作品をリリースしている。このような姿勢について布袋は「日々変化してこそロックン・ロール」と語っている。

ライブ活動には非常に精力的であり、現在でもアリーナ、ホール、ライブハウスなど様々な規模のステージを踏んでいる。「ライブアーティストでありたい」「あくまでライブをやりたいから楽曲を作る」などステージを意識した発言は数多い。ステージセットや演出にも拘り、代名詞とも言えるアグレッシブで独特のステージアクションを評価しているミュージシャンも多く存在する。サポートメンバーはツアー毎に入れ替わることが多く、ツアーコンセプトやサポートメンバーのスタイルなどによって過去の楽曲にもさらなるアレンジを施し、時にオリジナルテイクと大きく姿を変える。基本的にほぼ毎回のライブ及びツアーの度に、新たにアレンジされた過去の楽曲が披露されている。

また楽曲だけに止まらず、ファッションやビジュアル、アートワークも活動コンセプトの一端として重視している。作品に合わせてスーツや皮ジャン、近未来風ファッションやゴシック調の衣装にも袖を通し、スタイリングも変える。このような姿勢はBOØWY結成当初から持ち合わせており、ヘアメイクや衣装、ライブコンセプトのアイディアを度々メンバーに提案していた。『INSTANT LOVE』の時期に、青山のブティック「T-KIDS」に衣装提供を直談判し実現させたというエピソードもある。また高校時代にレタリングの通信教育を受けていたことから[7]、BOØWY時代初期はライブの宣伝チラシのデザインも担当していた。

楽曲制作に関しては、作曲を優先(曲先)にする。ギターリフから作ったもの、ベースリフから作ったもの、メロディから作ったもの、リズムパターンから作ったものと、バラエティに富んでいる。前述の通りライブへの拘りが非常に強い為、作曲の時点ではあまり意識しないが、編曲はライブを意識して行っている。ステージでのパートはギターとボーカルのみだが(一部ピアノを演奏したツアーも存在する)、レコーディングの際はベースやキーボード等も自らが演奏する。またデモテープ制作時はプログラミングも行うが、本人は「あくまでギターを気持ち良く弾く為のトラック作り。(自分には)向いていない」と語っている。

自身が最も影響を受けたミュージシャンにデヴィッド・ボウイ、T-REX、ロキシー・ミュージックを、また自身をギタリストにしてしまった人物としてマーク・ボラン、ミック・ロンソン、クリス・スペディングを挙げている。特にデヴィッド・ボウイへの敬愛は強く、インタビュー等で頻繁に名前が登場している。また自身の音楽コンセプトを毎回変えるというスタイルもボウイから受けた影響のひとつである。他にも10cc、エルヴィス・コステロ、XTC、スパークス、クラフトワーク、デフ・スクール、スティーヴ・ハーレイ&コックニー・レベル、ディーヴォ、トーキング・ヘッズ、DAF、ウルトラヴォックス、ジグ・ジグ・スパトニック、ジーザス・ジョーンズ、ギャング・オブ・フォー、テレヴィジョン、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ、ブームタウン・ラッツ、セックス・ピストルズ、リー・リトナー、アル・ディ・メオラ、ブリジット・フォンテーヌなどをはじめ多岐に及ぶ。現在でも非常に多くのミュージシャンを愛聴しており、自他共に認めるレコードマニアである。

基本的にブリティッシュムーブメント(特にグラムロック、パンク、ニューウェイヴ)からの影響が強く、「Tシャツにジーンズで長髪といったカジュアルな出で立ちのアメリカンロックよりも、スーツ姿にメイクを施し髪を逆立てているブリティッシュロックの方が煌びやかで魅力を感じた」と語っている。一方でレイ・パーカーJr.、ジョニー"ギター"ワトソン、アル・マッケイなど、ブラックミュージック系のギタリストを好んでコピーしていたことから、ファンクへの拘りも非常に強い。布袋のギタースタイルの象徴のひとつとして「BAD FEELING」のリフに代表されるカッティングが挙げられるが、これもファンクからの影響を強く受けていることが背景にある。またアマチュア時代は毎日クラフトワークを聴きながら楽曲のループに合わせてギターフレーズを考えていたという時期も存在し、理想のギタリスト像について「マーク・ボランとレイ・パーカーJr.を合わせたようなギタリストになりたかった[11]」「マーク・ボランのようなグラムな衣装で、黒人のようなファンキーなカッティングを、クラフトワークのビートをバックに踊りながら弾くギタリストという何とも奇妙なものだった」と語っている。一方でパンクやニューウェイヴからの影響により、アマチュア時代からテクニックよりもオリジナリティーを重視してきた結果、未だに小指は上手く使えないという。

このような音楽趣向からビートへの拘りは強く、様々な場面でよく口にしている。前述のようにファンクからの影響が非常に大きい為、バッキングの際はブリッジミュートを駆使してリズムを際立たせるプレイをすることが多く、ハードロックなどの歪み系のサウンドは出すことは少ない。また自身のことを「リズム・ギタリストとかリード・ギタリストとかあるけど、僕はビート・ギタリスト」だと語っている。事実ギターを弾く際のピッキングのアタック感やリズム感を意識している発言も多い。多くのミュージシャンから「布袋のギターはコンピューターのような正確さだ」と評価されており、スティーヴ エトウは「迷った時には彼のギターを聴けば確実」と語っている。

ピックはオニギリ型のハードタイプを愛用。ピックと爪を同時に弦に当てながら弾く為、独特のサウンドを奏でる。一度のライブで爪がかなり消耗することから、ツアー中はコーティングを欠かさず行っている。小指を使わない。 マーティ・フリードマンは自身の著書にて、ギターの音を聞いただけで誰が弾いているかわかる日本の個性派ギタリストとしてChar、松本孝弘と共に布袋の名を挙げている[17]。

音楽以外に絵画や詩、映画、文学なども好み、曲作りに影響を受けたエピソードも著書やインタビュー等で語られている。アンディ・ウォーホル、ジャン・コクトー、ランボー、サルバドール・ダリ、ガウディ、ゴッホ、ケネス・アンガー、スタンリー・キューブリック、ウィリアム・バロウズ、小池真理子などを趣味として挙げている。旅に出ることも多く、様々な土地でのエピソードが度々楽曲に反映されている。特にロンドンへの愛着は一際強く、2012年に移住する以前も別宅としてアビーロードにフラットを所有しており、レコーディングやプライベートで度々訪れていた。
人物

自身の著書『秘密』によると、父親は韓国人で、韓国にも家庭があり、母は日本での妻という立場だったとのこと。貿易商であり1年の大半を国外で過ごしていたため、日本に戻る事はほとんど無く母子家庭同然だったという。映画「新・仁義なき戦い」に、昌龍の役で出演を決めた理由について、「彼の生い立ちと同じく、僕も父親が韓国人で、アウトサイダーとして生きざるを得なかった」と語っている。

母親は、ロシア(樺太)生まれの日本人とロシア人とのハーフで、日本国籍とのこと。かつて高崎駅前にてクラブを経営していた。

妹はかつてガラパゴスのヴォーカルとして活動していた狩野環。ガラパゴスは1991年から1992年に行われた布袋のGUITARHYTHM ACTIVEツアーで前座を務めたり、布袋が同バンドの楽曲『月の流す涙』をラジオ内でカヴァーしたりと、音楽上でも交流があった。1994年のガラパゴス解散後は、新たにSUPER EGOを結成。後に同バンドのドラマーと結婚した。 彼女の第一子は女児で「ハナ」と命名されたが、この名前を布袋は盟友であるジーザス・ジョーンズのマイク・エドワーズの女児にセカンドネームとして贈った。

裕福な家庭に育つが、父親が韓国人だったことから幼少時代には差別のような扱いも受けた。また当時の時代背景もあってか両親は籍を入れてはおらず、自宅の表札には2つの苗字が並んでいたという[7]。布袋が高校3年の時に両親は離婚している。その際父親の借金を母親がすべて背負うことになってしまい、住んでいた邸宅を引き払い四畳半のアパートでの生活を余儀なくされる。

幼少時代にピアノを始める。母親がハリウッド映画のサウンドトラックやアルゼンチン・タンゴを好んで聴いており、彼女からのリクエストでこれらの楽曲を弾くことも多かったという。14歳の頃、マーク・ボランのポスターを見て感銘を受け、ギターを始める。初めて買ったギターはストラトキャスタータイプで、この時の資金は母親の財布から失敬した1万円だった。

幼少時代から服装には拘りを持っており、カブスカウトの制服に憧れたり、小学校高学年になると長髪にしてベルボトムのジーンズを履くような少年だった。当時の群馬県は中学生になると頭髪を五分刈りにしなければならなかった[要出典]が、これを避ける為に私服登校が可能な中高一貫制の私立校へ進学している。高校時代は真っ赤なスーツで登校したり、デヴィッド・ボウイの『アラジン・セイン』のジャケットを真似て眉毛を剃り落としたりもしていた。

後に独特のギタースタイル、ビジュアルを確立した大きな要因として、自身の「人と同じことが大嫌い」という性格を挙げている。前述の通り風変わりな服装で登校したり、クラスメートがレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどに夢中になっているのをよそに、ロキシー・ミュージックやブリジット・フォンテーヌなど所謂王道とは一線を画す音楽を聴き込んでいたのもその性格の現れである。

プロテスタント系キリスト教主義学校の新島学園高校中退。在籍した場合、その氏名等を掲載するという方針のため、「同窓会名簿」には名前が載っている。中退したのは卒業直前の時期であり、学校側から髪型を指摘されたことが原因である。その際、教師に向けて「イエス様の方が僕より長い」と言い放ったといわれ、このエピソードについて『クイズダービー』第748回(1990年7月14日放送分)の最終問題で出題された。実際には長髪にそれほど拘りがあった訳ではなく、敢えて中退した翌日に髪を切ってしまった[7]。一方、新島学園にも「生徒の個性を尊重すべきだ」と布袋を擁護した人物がいた。その人物は氷室京介や松井恒松、山田かまちの小学校時代の担任であり、後にかまちの作品を世に送り出す人である(当時、新島学園高校の美術科非常勤講師だった竹内俊雄)。

BOØWY時代から現在に至るまで愛用されている、白黒の幾何学模様のフェルナンデス(後に、ネックや金属パーツなどをゾディアック・ワークス製に交換している)・テレキャスター(TEJ-HT)は、市販の数あるシグネイチャー・モデルのギターの中でも特に有名である。この模様は、布袋のトレードマークとして、ステージ衣装やアルバムのジャケットに使われたり、ソロ活動以降の「ギタリズム・マーク」のモチーフにも使われている。模様は、当時ESP製の一本しか持っていなかったテレキャスターをかっこよくしたいと考え、酒を呑んで酔っ払った勢いで「あっみだくじぃ〜」と口ずさみながらトイレで描いたとされている(当初は白いボディに黒ライン)。BOØWY結成後のロンドンの地下鉄の線路図の一部を描いた、という俗説もある。過去に一度盗難に遭ってしまったが、無事手もとに戻ってきている。

左肩に宙を羽ばたく鳥とHEAVENという文字のタトゥーがある。これは1987年にベルリンで入れたもので、当時BOØWY解散が決定し一時は音楽業界からの引退も考えたが、最終的に「自分は天国に行くまでギターを弾き続ける」と決意した際の誓いの証とのこと[7]。

1986年1月に、歌手の山下久美子と結婚したが、1997年11月に離婚した。1999年6月に女優・歌手の今井美樹と再婚し、一人娘がいる。その後2004年、フライデーに、当時、保坂尚輝の妻であった高岡早紀との関係を写真付きで報じられマスコミを賑わせたが、今井美樹との関係が壊れることはなかった。

2007年10月、パンクロック歌手で芥川賞作家の町田康に暴行し軽傷を負わせたとして、木更津簡易裁判所より傷害罪で罰金30万円の略式命令を受けた。なお、暴行事件を起こした布袋を「布袋寅泰容疑者」ではなく「布袋寅泰氏」または「布袋ギタリスト」と呼称した一部マスコミも存在した。本人は自分が全面的に悪いと非を認めている。

2011年に東日本大震災で被災した宮城県南三陸町にボランティアとして訪れたことを明らかにしている。

2012年夏、ロンドンへ移住。移住前にはブログ上で、長年の夢だったロックの発祥の地であるロンドンで腕試しをする旨を明かしていた。

エピソード

長身と強面の印象が広く定着しているが、グラムロックの影響を多分に受けたことから、高校時代は髪を伸ばし化粧をして通学していた。また所謂音楽オタクであったことから「中学時代、因縁をつけられて自己防衛で殴りかかったら逆に自分の手を傷めた」「バイク乗りたちのパーティーに呼ばれたが怖くて断れず、『ハロー・ミスター・モンキー』など演りたくもない楽曲を、終始ビクビクしながら直立不動で演奏した」など、不良とはまったく無縁の人物であり喧嘩も滅法弱かったという。上京後に氷室京介から電話で呼び出されバンド結成の話を持ちかけられた際も、「(氷室が地元で有名な不良少年だったことから)最初は殴られるんじゃないかと怯えながら待ち合わせ場所に行った」と語っている。
身長に関するエピソードは多い。BOØWYがまだライブハウスで活動していた頃、道端でいきなりトランシーバーを持った子供たちに「宇宙人発見!宇宙人発見!」と言われた。本人もそれに乗って子供たちを追い回したという[6][25]。また自転車で立ち漕ぎをしていたら、通りすがりの老婆に驚かれたこともある。
中村達也が上京したての頃に高円寺駅で布袋を見掛けた際には、長身でさらに髪を立てていたので「伊勢海老みたいやな」と思ったという。
1996年に デヴィッド・ボウイの来日公演で共演した際には、「彼がステージに上がるなら、僕はハイヒールを履く必要があります」と紹介された。ちなみにこの日の前日、布袋は共演するためにボウイへの想いを綴った手紙を渡している(ホテルのドアの隙間から差し入れた)
ミュージックステーションに出演する度、タモリから長身をネタにされている。2008年にThe THREEとして出演する際にも、事前にブログ上で「相変わらずデカいと言われる」と予言していたが、いざ当日出番になってもなかなか言われず、とうとう最後に「何か僕に言い忘れてることがあるんじゃないですか?」と自ら振ってしまった。
このように長身ネタには事欠かないが、小学校時代は身長が低く、常に前から2、3番目あたりだったという。
BOØWY解散後、氷室京介と直接会話したのは『GUITARHYTHM II』完成後。布袋が訪ねて行くと氷室は「聴いたよ」と答え、感想として「長げーよ」とコメントしたという。「いいけど長い」「長いのつくりたかったんだからいいんじゃない?」と氷室は答え、率直な感想をもらえたとして布袋はうれしかったとコメントしている。
1994年に参加した東大寺でのイベント『GME'94 AONIYOSHI』で、ステージを降りる際にボブ・ディランから「I LIKE YOUR GUITAR.」と賞賛される。「THANK YOU.」と返し楽屋に戻ろうとすると、ディランのローディーが追いかけてきて「ディランがあんな風に他のミュージシャンに話し掛けるところを俺は初めて見たよ。君はすごくラッキーな人間だと思ったほうが良い」と興奮状態で話したという。
イギリスのミュージシャンに「MATERIALS」を無断でサンプリングされたことがある。パーティーの席で、相手が作曲者とも知らず布袋にそのことを話す当人に「それ、俺の曲なんだけど…」と返すと、その場は一瞬にして大爆笑となった。
今井美樹が布袋の音楽性に惚れ込み、「今井の音楽性に布袋は合わない」というスタッフの反対を押し切ってアルバム用に2曲発注したところ、布袋は7曲も作ってきたという。
『King & Queen』のレコーディングでブライアン・セッツァーと初対面する日に髪を緑に染めていった。するとスタジオに現れたブライアンも髪を紫に染めてきており、その場で大爆笑し意気投合してしまった。以後ブライアンとは2007年にステージ上でも共演するなど、今日まで交流が続いている。
2005.2.28HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMPのテロップに、中学時代はテニス部→英語部に属していたと明記されている。
前述の通り、BOØWYがまだブレイクする以前に『風の谷のナウシカ』の挿入曲「王蟲の暴走」に参加している。当時BOØWYが所属していたレコード会社がナウシカのサントラ発売元でもある徳間ジャパンだった繋がりで、音楽担当の久石譲より「ギターで鳴いてほしい」というオファーがあったとのこと。2011年、ツイッター上にて「ナウシカのオームの鳴き声は僕のギターなんですよ!」とツイートしたところ、ネット上で話題を呼んだ。
両親の離婚後、父親とは一切の接点を持たなくなる。しかし実はBOØWYの『LAST GIGS』の場に父親はやって来ていた。チケットが無かった為、終始外壁に耳を当てて中の音を聴いていたという。後年彼が他界し秘書から報告の電話を受けた際に、布袋は初めてその事実を知った。また2000年初頭に映画『SF サムライ・フィクション』のプロモーションで韓国を訪れた際には、現地に住む異母兄弟から手紙を受け取っている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B%E5%AF%85%E6%B3%B0


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2012年9月13日

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