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新撰組 三番隊組長 斉藤 一

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詳細 2014年8月29日 14:02更新

斎藤 一(さいとう はじめ、天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年)9月28日)は、幕末の武士。新選組隊士。明治時代の警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。

新選組では副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務める。御陵衛士にも入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。廃藩後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。退職後東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務める[1]。出自、経歴は不明な点も多い。

新選組
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さいとう はじめ
斎藤 一

長男をもとに描かれた肖像画
生誕 1844年2月18日(天保15年1月1日)
江戸
死没 1915年(大正4年)9月28日
東京府東京市本郷区真砂町
墓地 阿弥陀寺(福島県会津若松市)
国籍 日本
別名 山口一、山口二郎、一戸伝八、藤田五郎
職業 新選組隊士
御陵衛士
警視庁警察官
師範学校職員
肩書き 新選組副長助勤、三番隊組長、撃剣師範
警視庁警部
配偶者 高木時尾
子供 長男勉、次男剛、三男龍雄
親 父山口祐助、母ます
親戚 姉勝、兄廣明
受賞 勲七等青色桐葉章
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斎藤 一(さいとう はじめ、天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年)9月28日)は、幕末の武士。新選組隊士。明治時代の警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。

新選組では副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務める。御陵衛士にも入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。廃藩後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。退職後東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務める[1]。出自、経歴は不明な点も多い。

目次 [非表示]
1 生涯
1.1 出自
1.2 新選組
1.3 斗南藩
1.4 警視庁
1.5 晩年
2 剣術
2.1 流派
2.2 新選組
2.3 警視庁
2.4 師範学校
2.5 晩年
3 改名歴
3.1 別人説
4 逸話
4.1 左利き説
4.2 容姿について
4.3 夢録
5 フィクションにおける斎藤
6 参考文献
7 脚注

生涯 [編集] 出自 [編集]父山口祐助、母ますの次男として生まれる。姉に勝(ひさ)、兄に廣明。出身地は江戸とされるが、播磨国とも考えられる[2]。会津藩出身と書かれた資料もあるが、疑問視されている。父祐助は播磨国明石藩の足軽であったが、江戸へ出て石高1000石の旗本鈴木家の足軽となり、後年御家人株を買って御家人になったという[3]が、実際は鈴木家の公用人(家来)だった[4]。

一は19歳のとき、江戸小石川関口で旗本と口論になって斬ってしまう。父祐助の友人である京都の聖徳太子流剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めた。

永倉新八の手記『浪士文久報国記事』によれば、斎藤は江戸では近藤勇の天然理心流試衛館道場に出入りしていたとされる[5]が、のちに近藤が京都に滞在した試衛館の一同に武具を届けさせたときには、斎藤は含まれていない。浪士組にも参加しておらず、その頃には京都にいたと考えられている。少なくとも斎藤の上洛は近藤たちとは別行動であった(もっとも、近藤とともに上洛した者たちにしても統一行動をとっていたわけではない)。

新選組 [編集]1863年(文久3年)3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組(精忠浪士組)を結成。同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主松平容保の預かりとなる。

新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。新選組幹部で一番若いのは沖田総司であると思われていることも多いが、最年少は斎藤である(沖田の生年については異説あり)。のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務める。

1864年(元治元年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。

新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、長州藩の間者(スパイ)であったとされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与したといわれる。

1867年(慶応3年)3月、伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると、間者として潜入する[6][7]。新選組に復帰する際、御陵衛士の活動資金を盗み、金に困って逃げたように見せかけた[6][7]。新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は、斎藤が復帰の際にもたらした情報に基づいて起きたともいわれる。

同年12月7日、紀州藩の依頼を受けて、同藩士三浦休太郎を警護し、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃される(天満屋事件)。三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり、宮川信吉と舟津釜太郎が死亡、梅戸勝之進が斎藤をかばって重傷を負うなどの被害を出したが、斎藤は鎖帷子を着ていて無事であった。三浦は顔を負傷した。

将軍徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加する。1868年(慶応4年)1月に鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦。斎藤はいずれも最前線で戦った。近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らと一旦別れ、隊士の一部を率いて会津へ向かったとされる。一方、このとき斎藤は負傷して戦列を離れていて流山にはいなかったという説もあり、こちらの説では、隊士を率いて会津に向かったのは粂部正親または安富才助とされている。土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着き、斎藤らと合流した。

斎藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加。8月21日の母成峠の戦いにも参加した。敗戦により若松城下に退却。土方と合流したのはこの退却の最中、猪苗代でのことだった。その後、土方らは庄内に向かい、大鳥圭介ら幕軍の部隊は仙台に転戦したが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降した。降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。

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開設日
2012年3月16日

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カテゴリ
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