mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

ホーム > コミュニティ > 会社、団体 > 演劇集合体マキニウム

演劇集合体マキニウム

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

詳細 2013年4月29日 08:51更新

ども☆♪
はじめまして!!
 
札幌市東区北25条東16丁目 ステラ元町ビル3階( 市営地下鉄東豊線 元町駅 1番出口 徒歩1分 )に拠点を置く演劇集合体 マキニウムhttp://makinium.web.fc2.com/index.html
の代表をさせて頂いております 
 
槙 文彦
 
と申します衝撃exclamation ×2
ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
 
当コミュニティでは、
私の劇団に関する活動情報や日常の1コマを
皆様に、御提供させて頂きます。
ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
 
「芸術や表現というものは、才能が重要である」
一般には、演技や朗読についても上記と同じようなことが思われているのかもしれません。
しかし僕は、これは「半分は当たっているが、半分は間違っている」と思っています。
もちろん、はじめから表現が優れていて、やればやるほど人に認められる人はいるかもしれません。しかしそういった人に出会うことはごくごく稀です。
マキニウム式表現法は、「誰にでもでき、個性を発揮し、楽しくどこまでも成長し続ける表現法」です。みなさんがこの表現法と出会い、「声を出すこと」「人前に出ること」「拍手をもらうこと」をもっと楽しく感じ、表現の意欲がさらに強くなっていくことを強く願っています。
自分の個性を信じ、ありのままの感性をいかして表現していくマキニウム式表現法で、あなたにしかできない表現を一緒に発見していきませんか。
 
ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)

“マキニウム式表現法”とは、
演劇集合体マキニウム主宰・わたくし槙文彦が開発した、作品世界を豊かに、魅力的に伝える表現方法論のことです。
あなたは、“演技”や“朗読”について、どんな考えや知識を持っているでしょうか?
どんな“演技”や“朗読”を“いい演技”や“いい朗読”とするでしょうか。それは「人それぞれだ」と思われています。つまり、「人によって、“いい”と思う表現は違うものだ」ということです。しかしどうでしょう。少なくとも僕が行ってきたワークショップで出会ってきた数十人の方々の考えには、そう違いはないようです。
「感動をあたえる」
「物語の世界をつくる」
「自然だ」「違和感がない」
「言葉が聞き取りやすい」
etc...
そのどこを重視するかは人それぞれに違うとして、しかし上に書いたようなことは、ほとんどの方に異論はないようです。そしてやっぱり“一流”と呼ばれる人は、どこに行っても評価されるんです。
つまり、人の好みにそれぞれ違いはあるにしても、やっぱり「イイものはイイ」ということなんです。僕は欲張りなんで、その全てを克服したい。そしてさらに欲張りなんで、それが「誰にでも」できる方法を探りたい。
そんな欲張りな気持ちの中から生まれたのが、「マキニウム式表現法」なのです。つまり「マキニウム式表現法」は、「誰にでもできて、“いい表現”と呼ばれるものの全てを克服する」。そんなことを目指した方法論なのです。
 
、“マキニウム式表現法”は、全ての“いい表現”の要素を含む、そんな朗読をめざしています。

では、この“いい表現”の要素を分解して考えてみましょう。まず、朗読について考えてみましょう。“いい朗読”とは何なのか?

よく言われることが、「朗読者が出過ぎない」ということです。朗読者が「出過ぎる」と、朗読者が読む物語や詩の本来の世界がゆがめられてしまう、ということです。しかしこれもまたよく言われることなんですが、「朗読する人の声や表現がとてもいい」そんな朗読もまた賞賛されるでしょう。

今は亡き森重久彌さんの朗読なんて、ほんとに素晴らしいですよね。
ここが、朗読や演技の表現のとっても難しいところなんです。

つまり、観客やリスナーは朗読者や演技者が“表現する人”として魅力的なものを求めているが、しかし一方で物語や詩の世界が自然に入ってくる、そんなものを求めている、ということなんです。このどちらかが突出していると、朗読や演技はとてもいびつなものになります。

1.朗読者や演技者がとても魅力的だが、物語や詩などの世界が全く伝わってこない。
2.物語や詩の世界はとても伝わってくるような気がするが、なんだか朗読者や演技者が全然魅力的ではない。
1は、よくわかるんじゃないでしょうか。しかし、僕等の世界ではよくある表現なんじゃないかと思います。「全く伝わってこない」まではいかなくても、物語や詩の世界が「かなり歪められて」伝えられてしまうことは、ほんとに多く存在します。
普通に見てると気付かないことも多いんですが。

2はどうでしょうか?まず、こういうことが実在するか、ということなんですが、そもそも朗読者や演技者が全然魅力的でなかったら、物語や詩の世界以前の話で、みんな目や耳を傾けませんよね?

「朗読者や演技者があまり魅力的ではない」と言い換えれば、もしかしたら朗読や演技を教えている人や志している人の中で、ここら辺を目指している人はいるんじゃないかと思います。

つまり、「魅力的であるとか魅力的でないとかっていうのは本人の資質の問題だから、そこは教えられないし、進化できない。だから作品世界をいかに伝えるか、ということのみを技術として向上していけばいい」という考え方です。

しかし僕は欲張りなんで、この考えには賛成できません。
やっぱり演劇や朗読を志す人っていうのは、舞台の上で「魅力的な存在」になりたいんじゃないでしょうか?

そして観客っていうのは、「魅力的なもの」を待っているんじゃないでしょうか?ではどうすれば“魅力的”になれるんでしょうか?
 
みなさんはどんな人を“魅力的だ”と思うでしょうか?
これも人それぞれに違う価値観がありますよね。
仮にAさんが“魅力的だ”と感じる人でも、Bさんが“魅力的だ”と感じる保証はない。

むしろそんなこと人それぞれにバラバラでそんなことを考えても仕方がない、と考えるのが普通かもしれません。しかし、仮に“人類普遍の魅力的”というものが存在するのなら、それはどういうことなのでしょう。「そんなものが存在するはずがない」と思っている方、ちょっと僕の話を聞いて下さい。

僕は“人類普遍の魅力的”は存在すると思っています。違うのは“受け手の側”なのです。
世の中には様々な人が存在し、様々な価値観の中で生きています。だから何に“魅力的だ”と感じるかは、人それぞれに違うのです。

つまり、仮に“人類普遍の魅力的”が存在するとして、それを“魅力的だ”と感じるかどうかは、
“受け手の側”によって変わってくるわけで、“出し手の側(その魅力的な人)”に罪はない、ということなんです。

では“人類普遍の魅力的”とは何でしょうか?
ここからお話しすることは僕の仮説であり、正しいかどうかはわかりません。しかしこれまでに多くの方に共感をいただいてきました。共感するかどうかはみなさん次第、ということです。

“人類普遍の魅力的”とは、“人それぞれが抱いていて普段は秘めている(かもしれない)欲求や感情を、表出すること”ではないかと思うんです。

人は普段、いろいろな心の服を着て日常生活を過ごしています。それは例えば「怒りを感じても外に表さない」であったり、「苦手な人とも笑顔で挨拶」であったり、「気持ちがなくても優しく接する」であったりさまざまです。

しかしそんな「心の服」の多くが、僕等の表情や言動をいびつにしているんじゃないでしょうか?
子供が可愛いのはなぜでしょう?
旭山動物園のホッキョクグマが可愛いのはなぜでしょう?

猿山の猿がおもしろいのはなぜでしょう?
ジャニーズの少年たちが人気があるのはなぜでしょう?

答えはみな、同じところに存在するんじゃないかと思うんです。「猿とジャニーズを一緒にするな!!」といわれるかもしれませんが、僕が大まじめにそんなことを思っています。

つまり、僕等が普段来ている「心の服」を脱いでいって、
自分の本当の欲求が外に現れてくることが“人類普遍の魅力的”なんだと僕は思うんです。

「心の服」を脱ぐことは、とても勇気のいることです。特に沢山「重ね着」をしている人にとっては。そして多くの「魅力的」を論じる人が、「きれいな服」や「適切な服」を着ることを教えているんじゃないでしょうか?

しかし「服を着る」ことによって、その人固有の魅力“個性”と呼ばれるものにたどりつくことはできません。なぜなら、その「服」はどこにでも存在するものだからです。「心の服」を脱ぐことは、なぜ勇気のいることなのでしょう?

僕等はそれぞれの環境の中で、いろいろな「服」を着てきました。それはほとんどが「危険回避」の服だったんだと思うんです。人によっては「服」なんてものじゃすまされない、「バリアー」であったり「壁」であったりします。

「心の扉」を開くことは場合によってとても危険であり、その危険を避けるために僕等はそれぞれの「心の服」を着てきたのでした。しかしその「心の服」を脱ぐことが“人類普遍の魅力的”なんだと思うんです。

“受け手”によってそれは不快に思われるかもしれません。人々の中にはいろいろな価値観があり、「かっこいいこと」や「かわいいこと」「威厳があること」、あらゆることを嫌う人が世の中には存在します。

だからこの“人類普遍の魅力的”に近づくことは、リスクを伴うことなんです。しかしこのリスクは、“自分が魅力的になる”メリットに比べれば、はるかに小さいことなんだということをわかっていただけるでしょうか?
 
これが僕の考える「魅力的とは」の意味です。
 
ここまで来て、僕等の求めていることが、一見とても矛盾する二つの価値観であるということに気付かれたでしょうか?

朗読者や演技者が“表現する人”として魅力的で、かつ一方で物語や詩の世界が自然に入ってくる。「2.マキニウム式がめざすもの」で書いたことを要約するとこのようになります。しかし、「3.魅力的の意味」で僕が書いたことが“魅力的”の意味であると考えるならば、他人の書いたものである戯曲や物語や詩の世界を豊かに伝えるということはとても難しくなります。

戯曲や物語や詩などの文学作品は、作者の思いや感覚がふんだんに折り込まれています。質の高い作品であれば、それはなおさらのことです。
そしてその全てを、さらにはその全て以上のものをこの作品の意図や世界観に沿って広げて伝えるのが僕等朗読者や俳優の仕事だと思うんです。

であるならば、
朗読者や演技者が“魅力的”であることと、物語や詩の世界を伝える ということを同時に高いレベルで達成するということは、“自分がやりたいことをやる”ということと、“他人がやりたいことを伝える”というとても矛盾する二つのことを同時に達成するということになってしまうわけです。

朗読者や俳優の多くが、実はここで苦労しているんじゃないでしょうか?
朗読や俳優を始めて3年〜5年くらいで多くの人が、だんだん「なんだか成長しているのかどうかわからなく」なってしまうのもこれが理由なんじゃないでしょうか?

そして、欲張りな僕の課題は、「この矛盾する二つの課題を克服する方法論を見つけること」であり、そこで見つけた方法が「マキニウム式表現法」なのです。
 
皆さん、
 
ぼくらが創り出す
最高の時間を共有してみませんか?
 
ぼくらと一緒に、
最高の贅沢をしちゃいましょうグッド(上向き矢印)
 
ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)

http://makinium.web.fc2.com/index.html

コミュニティにつぶやきを投稿

最近の投稿がありません泣き顔
つぶやき・トピック・イベント・アンケートを作成して参加者と交流しようわーい(嬉しい顔)
参加メンバー 5人

もっと見る

開設日
2011年12月12日

1961日間運営

カテゴリ
会社、団体
関連ワード
関連ワードを登録しよう

編集から関連ワードを登録すると、コミュニティがmixiワードに表示されるようになります!