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真田幸村&趙雲子龍なら世界最強

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詳細 2015年5月24日 18:09更新

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趙雲子龍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%9B%B2
真田幸村(信繁)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81

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趙 雲(ちょう うん、Zhao Yun、? - 229年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍。字は子龍(しりゅう)。冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯。子は趙統・趙広。父と兄の名は不詳。

生涯

『三国志』趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』(現在は散逸)によると、趙雲は身長八尺(約184cm)で、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫瓚の配下となった。

公孫瓚が、青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として劉備を派遣した際に随行し、劉備の騎兵隊長となった。

上記『趙雲別伝』によると、後に趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった時、劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟った、とある。(192年に常山郡は袁紹の統治領となった)

建安5年(200年)、劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲は鄴で久しぶりに目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。

建安13年(208年)、劉備が曹操の大軍に追われ逃走した時、荊州の当陽県長坂で、趙雲は劉備の子阿斗(後の劉禅)を自ら抱え、また甘夫人(劉備夫人)を保護した(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

上記『趙雲別伝』によれば、同年荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁(未亡人)を嫁がせようとしたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者では有りません。また、天下にも女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。このようなこともあり、劉備は入蜀時に趙雲を留営司馬に任じ、奥向きのことを取り締まらせた。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮に率いられ張飛とともに長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州(重慶)から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。上記『趙雲別伝』によれば、益州支配後に劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、反対したとの記載がある。

上記『趙雲別伝』によれば、漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠を救出し見事な撤退戦と空城計を演じたため、劉備から「子龍は一身これ胆なり(子龍は度胸の塊、の意味)」と賞賛され、軍中において虎威将軍と呼ばれるようになった。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。

章武元年(221年)、呉を討とうとする劉備を諫めたが聴き容れられず(夷陵の戦い)、趙雲は江州に留まった。

建興元年(223年)、中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。翌6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹真はこれを真に受けて大軍で押し寄せた。趙雲は芝とともにその相手をする囮となり、諸葛亮が祁山を攻めた。趙雲と芝は箕谷で敗北したものの、軍兵を取りまとめてよく守ったため、大敗には至らなかった。しかし敗北の責任として鎮軍将軍に降格された。『趙雲別伝』によれば、趙雲が軍需物資を殆ど捨てずに退却したため、諸葛亮は恩賞として趙雲軍の将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、敗戦にあって恩賞を出すのは道理に合わないとして固辞し、冬の備えとするよう進言した。水経注によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。

翌7年(229年)没した。趙統が後を継いだ。

景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。上記『趙雲別伝』に記載する姜維らの進言では、

「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します。趙雲に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」

とある。

趙雲別伝

本伝中の記述がやや簡素なのに比べ、『趙雲別伝』の記述は活躍を賛美する記述が非常に多く、清の史学者何焯は「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈している。

ただ『季漢輔臣賛』には「重厚な性質で、選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされている。

三国志演義

詳細は「三国志演義の成立史#趙雲」を参照

小説『三国志演義』において、趙雲は正史に比べ記述が多く、五虎大将軍の一人として、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。

長坂では、単騎で大軍の中を駆け抜け阿斗と甘夫人を救出する話(阿斗を抱えていた麋夫人は井戸に身投げして自殺)が『演義』でも代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。

劉備が、孫権の妹と縁談のため呉に向かった際には同行している。そして、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。

『演義』で五虎大将軍として称えられる趙雲であるが、史実の上では五人中最も位が低い。劉備が漢中王として即位した際、関羽・黄忠・馬超・張飛がそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対し、当時趙雲の軍位は翊軍将軍のままであり、その位階職位は魏延よりも下であった。
京劇・龍鳳呈祥

京劇『龍鳳呈祥』の内の「取桂陽」によると、桂陽太守、趙範は趙雲との戦にまるで自信がないばかりか、兄嫁で寡婦の樊玉鳳(はんぎょくほう。樊氏を参照)の助言を聞き入れて、戦わずして投降。趙雲と同郷の趙範は義兄弟の契りまで結ぶ。 趙範は樊玉鳳との結婚を勧めるも、趙雲は拒否し桂陽を攻め落とそうとする。ところが戦場に出てきたのが綸子を着た武者姿の樊玉鳳だった。 戦っている間に趙雲が惚れ、2人が戦っているところに劉備と諸葛亮が登場して取りなしめでたく結ばれた。という顛末になっている。

民間伝説

民間伝説によると、趙雲は「白龍」(はくりゅう)(もしくは白龍駒、はくりゅうく)という名前の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。子龍池は趙雲の家の裏に在り、白龍とともに趙雲が傷を癒したという。後に子龍池を、民や負傷兵らも傷が癒せるように解放し、大変喜ばれている。

また「涯角槍」(がいかくそう)という槍を得意としていたとなっている。『三国志平話』によると、長さ九尺(約3メートル)で趙雲が「生涯に敵う者なし」という意味で名付けたことになっている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎打ちをしている。

趙雲の妻に孫軟児なる夫人がおり、この夫人が戯れに刺繍針で趙雲の身体をつついたところ、血が止まらなくなり死んでしまった、とする伝承がある。

清代の『江陵県志』によると、関羽の子関平が趙雲の娘趙氏を娶ったとあり、関平と趙氏の子は関樾(木偏に越)という名で、江陵に住んでいたとある。関樾が8歳のとき、趙氏らとともに炎上する荊州(樊城の戦い)から益州へ逃れ、関羽の血筋を守ったという。

上記は『演義』では一切語られていないが、白龍の話は、映画『レッドクリフ』で採用されている。軟児の名は、映画『三国志』で採用されている。

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真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男。

江戸時代初期の大坂の陣で活躍し、特に大坂夏の陣では、寡兵3500を持って徳川家康の本陣まで攻め込み家康を追いつめた。

大坂の陣を契機に、この合戦に参陣・参戦した将兵による記録・証言が基となって、江戸幕府・諸大名家の各種史料にその戦将振りが記録された。さらにはその史実を基に講談や小説などに翻案、創作されるなどして、ついには真田十勇士を従え宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として扱われ、国民の間に流布するに至った。そのため幕府・諸大名のみならず広く一般庶民にも知られる存在となった人物である。

「真田幸村」の由来

現在でも「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め信繁が生きていた頃の史料で「幸村」の名が使われているものは無く、その忌み名=諱=実名においては「信繁」が正しい。

「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣以後で、寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』がその初出と判明している。この『難波戦記』が人気を博し流布して広く読まれたため「幸村」名が一般的となったようだ。時代が下るにつれ「幸村」の名があまりにも普遍化してしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」が採用されている。

「幸」は真田家(厳密には真田家の本家にあたる海野家)の通字であり、「村」については信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来するとの説がある。

「幸村」という名は信繁の死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もあるものの、現在のところ「幸村」という名が記された史料は見つかっておらず、立証されていない。また、夏の陣での死の2ヶ月前に「幸村」と改名したという説もあるが、大坂冬の陣と大坂夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や兄・姉にあてた手紙にも「信繁」と記されており、史料による裏づけはない(ただ、慶長20年2月というのは、「夏の陣での死の2ヶ月前に『幸村』と改名したという説」に言う「2ヶ月前」ではなく、3ヶ月前なので、この説=死の2ヶ月前に「幸村」と改名した説=の否定根拠にはなり得ない)。

また注意すべきは、幸村名の履歴論において『難波戦記』云々は現存史料の中で「初出」が『難波戦記』なのであって、『難波戦記』の創作を意味するわけではない、ということである。このため「幸村」名の出自は憶測・想像を排すれば、依然謎なのである。

なお、大坂夏の陣から200年近く後、文化6(1809)年、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。

生涯

出生から真田氏の自立

永禄10年(1567年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれたとされる。母は正室の山手殿。

真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸綱(幸隆)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸綱の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。

幸綱は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが昌幸も城代を引き継ぎ、信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。なお、天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模国の後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。

天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順し上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵された。同年6月には上方で本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、越後国の上杉氏、相模の後北条氏、三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正10年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。この際に信繁は上杉氏のもとに人質として置かれ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたという。

上方で織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸は豊臣政権に帰属し、独立大名として自立する。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘を正妻に迎えている。文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。

豊臣氏時代の信繁の動向は、史料が少なく、詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も、史料自体はあるものの、さらに確認のための、別の史料による裏付けサポートは困難でもある。なお、年月不詳だが、伏見に滞在していた頃に出したとみられる信繁の書状が残っている。

関ヶ原の合戦

秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。

東軍の内、秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、父・昌幸と信繁(幸村)は居城上田城に籠り、徳川秀忠の大軍を城に立て籠もって迎え撃った(第二次上田合戦)。少数の真田隊にてこずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ攻略を諦めて去った。

また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度打って出て夜討と朝駆けの攻撃を敢行している。

三成率いる西軍は、9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった。

蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)には信繁は出家、好白と名乗った。

大坂入城

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入った。

大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという(真田の赤備え)。

大坂冬の陣

真田幸村出丸城跡(大阪府大阪市天王寺区心眼寺)

慶長19年(1614年)に開戦した大坂冬の陣では、真田信繁は当初からの大坂城籠城案に真っ向から反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられず終わる[9]。

しかし大坂城に籠城する策と決定すると、真っ先に真田信繁は豊臣秀吉が生前築城の際悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発、先鋒隊に大打撃を与えた。ために徳川勢は、おびただしい死傷者を出して、撤退に至った。史料に拠る限り、これは、真田丸・真田隊の勝利以外の何ものでもない。

この戦闘で真田信繁は、初めてその武名を天下に知らしめる事となる。(真田丸の戦い)。

なお、この真田丸を造る際、大坂方の大野治長を始めとする他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し「十万石下さるべく候旨」条件を提示し寝返るよう説得している。しかし信繁はこれを断った。すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。

大坂夏の陣

「天王寺・岡山の戦い」も参照

慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)において、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。
真田幸村戦死跡の碑(大阪府大阪市天王寺区安居神社境内)

ただし、この道明寺の戦いでは先行した後藤基次隊が、真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったため、と現存史料が伝える。また、毛利勝永隊は、この時、真田隊より早く、戦闘現場に、すでに着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内、譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任のすべてが、信繁や勝永ら、現場の部将にあるとは言えない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と、信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで、真田隊は、殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた[15]。「関東勢百万と候え、云々」は、この、撤退戦の時のことである。

豊臣方は後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、疲弊していった。真田信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみと直訴したが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた(5月7日)。

5月7日、信繁は、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図とともに、これを急襲・横撃させるというものだった。

しかし毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。これを受けて、信繁は、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」とつぶやき[18] 、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦、ために徳川勢は壊乱し、総崩れの観を呈するに至った。中でも信繁率いる真田隊は、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍をも突き崩すと、後方の家康本陣にまで攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして、その本陣を蹂躙した(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。

ともあれ、最終的には兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、忠直隊鉄砲組の西尾宗次にその首を授けた。享年49。


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2011年11月26日

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